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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

苦労はタダで手に入り、モチベーションも必要ない

 慢性的なやる気不足のシンドロームを補うべく、気力ややる気を保つ思考法について考えることは多いのですが、今回は最近思ったことを書いておきます。

「苦労します」型のアティチュード

 「努力します」、ではなく、「苦労します」、という意思のかたちの方が、よい場合があると感じるようになりました。
 人に「ご苦労さま」、とたくさん言われるようなことをする。
 自分で自分に「ご苦労さま」と言えるように心掛けるのでもいいでしょう。


 なぜ「努力します」では不十分だと感じるのかというと、ぼく自身が主体的なモチベーションの希薄な、「自分のことを他人事のように考えやすい」タイプだからかもしれません。

苦労にモチベーションは必要ない

 「努力」は「努力する」という、主観的な意志や動機を前提とします。
 でも「苦労」は、ただ苦労しそうな状況に自分を追い込むだけでいいLet it beな行為であって、頑張ろうとして頑張るわけでなく、結果として頑張ったり、耐えたりするにすぎません。


 個人的には、そのくらい投げ遣りというか、気張らない思考法の方が楽に感じるようです。

苦労は現実任せで受動的

 「努力」だと全て自分でプランニングして自己管理しないといけないような気がして滅入りますが、「苦労」は現実任せです。
 現実はタダで苦労が買えるようになっており、苦労の内容に合わせてプランニングを始めればよく、能動的な決定も不要なのです。


 自己管理が苦手なタイプにとって、この「受動的なアウトソーシング感」を利用しない手はありません。

理想とされるのは「努力も苦労も感じません」型のアティチュード

 「好きでやってますから努力も苦労も感じません」という無心のタイプが努力の理想形ではあるんでしょう。
 でも「最終的に苦労を感じなくなる」ことを見込めば、「苦労します」、の方が無心の境地に近付きやすい気もします。


 同様の理由で、「努力」という言葉よりも「根性」の方がまだ好みです。
 ニュアンス的には「頑張ろうとする気持ち」を表す能動的な意志ではなく、「苦労を我慢する気持ち」を表した受動的な意志に近いのが「根性」でしょうから。


 そういえば子どもの頃から、「やる気はないが、我慢強い性格だ」と大人から言われることが多かった気がします。
 そんな気質だと「苦労」や「根性」の方が似合うのかもしれません。

なぜか辛気臭く聞こえる「苦労しろ」

 ただなぜか、「苦労は買ってでもしろ」という教訓は、古臭くて押し付けがましいというイメージがありますね。
 なんならブラック企業じみた組織に特有な、「底辺のレベルに幸福度を揃えようとする」同調圧力の臭いも連想させるでしょう。


 その一方で、「努力しよう」という言葉は美しい言葉として耳馴染みがいい。
 ネット上で「努力教」などと揶揄されるのも、「努力」は美辞麗句として一般に流通しているのだというイメージを逆に裏付けていると言えるでしょう。


 たぶん「努力」は「本人の意思に任せている」という選択余地があるから「苦労」よりも耳触りいいのかもしれません。
(極端な話、どれだけ苦労しそうなシチュエーションに陥っても「努力しない」という自由はあるのですから、押し付けにならないのでしょう。)


 「努力は必ず報われる!」


 ……という決まり文句がありますが、努力を苦労に置き換えて


 「苦労は必ず報われる!」


……って言うのは、なんか、すごくイイ言葉っぽくないですか。


 本人の「頑張ったという気持ち」が報われるより、現実に辛い思いをしただけ報われることの方が公正のような気もします。
 でもやっぱり言い方が古臭いですね。


 天下国家で人間が働く旧時代では「苦労」が通用するが、近代的自我を持った人間が唯我独尊で働く現代では「努力」を唱えなければいけないのでは? と考えてみればけっこう理屈に合っているかもしれません。

「頑張れ」と「加油

 中国語での「努力」は、「工夫」とか「功夫」とか(どっちもクンフー、ゴンフーと読む)、「本人の気持ち」ではなく「積み重ねた時間や工夫の量」の結果で言い表すこともします。


 さらに「頑張れ」は「加油」という、外部的なエネルギーの注入に喩えて表現します。
 日本語では「頑なになって張れ」という、内面的なエネルギーを重視する言い方であって、精神主義的な偏りが激しい気がしますね。


 このように、言語のなかに潜んだ精神性が人間のストレスを増やしているようにも思えるのです。