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「誰でも助ける」主人公の生まれ方

「誰でも助ける」ハーレムメーカーと、人生を救われることで惚れる者たち - ピアノ・ファイア

 先日の日記からの発展ですが。

 なぜこういうタイプの主人公が作り出されるのか? というと、ある種の快楽原則に基づいた制作上の需要からだという理由も考えられますね。

  1. 観客は、誰からも感謝される「いい人」でありたいと思っている(自分がそうであるかは別として)
  2. 翻せば観客は、できれば誰も傷つけたくないと思っている
  1. 観客は、誰でも助けるような人物の味方(=視点)に立ちたいと思っている
  2. 翻せば観客は、誰かを見捨てるような人物を見たくないと思っている


 前半は主人公に自分を重ねて共感するような場合の快楽原則、後半は主人公を「眺める側」についた場合の快楽原則で、どちらも同じ行動原理を主人公に求めることになります。
 こういう快楽原則の要望に応える人物がセーフティでオーソドックスな「主人公」と呼ばれる人物造型なのかもしれません。
 まぁこういう人格は、はっきり言ってしまえば偽善者であって、だから「偽善者キャラ」とそしりを受けること自体が折り込み済みになっているケースも少なくないですね。


 このことから考えられるのは、主人公というものは観客の「そんなことはしたくない」「そんな所は見たくない」という忌避感によって「そんなことしないで済むようにする」「そんな所を見せないで済むようにする」という行動を取らなければならない存在であるということ。その行動原理の根拠は、キャラクター自身の中に内在していない、とも言えます。


 内在する人格によって自律的に行動するのではなく、外在する期待に応えるために他律的に行動するようだと、キャラというよりも一種の現象とも呼べるでしょうね。

 これは描き方によっては、醜いキャラクター造型を導く場合もあるし、爽快なキャラを生み出す場合もある。

 逆に、そういう主人公の動機を本人の中に内在させる工夫もできます。しかし元々「外在的な原則による現象」と言えるほど奇怪なものを一人の人間に背負わせるのだから、偽善者のそしりを受けるどころか、「頭おかしいんじゃないの」という扱いすら受けるような人格にもなりえるわけですが。Fateの士郎などはまさにそのタイプですね。
 逆に言うと、それほど「誰でも助けるハーレムメーカー」というキャラ造型はオバケめいた存在であって、安易に描いてしまうと作品の品格が問われるガジェットだということでしょう。
 そこのバランス取りが難しい(でも手を抜こうと思えばいくらでも手を抜けそうな気もする)表現なのがハーレムメーカーですね。


 私見としての意見で言えば、劇中で批判や試練を受けないようなハーレムメーカーの存在には否定的です。

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