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ピューリタニズムの天職観念と少年漫画の精神

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
マックス ヴェーバー 大塚 久雄

岩波書店 1989-01
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 カルヴァン思想などの流れから興味があったのですが、その手の世界では必読とされる本を読んでみることにしました。
 前もってペトロニウス先生からレクチャーを受けていた*1ので、細部の記述を読み飛ばしながらでも割とすんなり大筋を理解することができました。


 読んでいてなるほど……と思ったのは、単なる「金儲け」という行為でも、「楽してお金儲けしたい(楽して暮らしたい)」という享楽的な精神と、「懸命に労働した対価(自己証明)としての大金を手に入れよう」という職人的な精神とを峻別できるような価値観が「発見」されたのは、つい百年前くらいのことだった、ということ。
 ↑微妙に勘違いした読み方をしているような気もしますが、マックス・ヴェーバー以前の欧米において「お金儲けしている人」は十把一絡げに認識されていて、禁欲的で勤勉な労働者と、そうではない怠惰な金満者の区別があまりつけられてなかったんじゃないかなという印象です(現代人でも区別のつかない人は多いでしょうけど)。


 それにしても、ピューリタン清教徒)による宗教的教育の成果とされる「行動的禁欲主義」こそが「近代資本主義の精神」を生んだのだ……、というくだりにはとりあえず納得するとして、しかしその「非合理的」かつ、激しく強迫観念的な行動原理(エートス)が「日本の少年漫画における行動原理」と相通じるように感じられるのが、個人的には興味深い部分でした。


 元々、経済学の分野では「なぜプロテスタントが根付いていない日本において、欧米人に匹敵する勤勉な労働力が発生したのか」という問題は、世界中でもレアなケースとして様々な議論がなされてきたそうなのですが*2、ぼくは「少年漫画」という娯楽の中に「資本主義の精神と共通の思想が息づいている」という現象に「文化の不思議」を感じます。


 以下は、本書でも引用されている、清教徒のバックスターの言葉(傍点や括弧書きは省略)。

「もしも神があなたがたに、自分の霊魂も他人の霊魂も害うことなく、律法にかなったやり方で、しかも、他の方法によるよりいっそう多くを利得しうるような方法を示し給うたばあい、もしそれを斥けて利得の少ない方法をえらぶとすれば、あなたがたは自分に対する召名の目的の一つに逆らい、神の管理人としてその賜物を受けとり、神の求め給うときに彼のためにそれを用いることを拒む、ということになる。もちろん肉や欲や罪のためではなくて、神のためにあなたがたが労働し、富裕になるというのはよいことなのだ」

 これ、少年漫画読みとしては、不思議なくらいすんなり頭の中に入ってくる言葉だと思いません?*3
 この思想って、少年漫画のテーマとしてそのまんま使っても全然違和感無いですよ。
 日本の経営者や起業人とか、バリバリのビジネスマンには本宮ひろ志ファンが多いという話は良く聞くのですが、これって、一体どこで繋がってるんだろうなぁと考えると、なかなか、深いです。

*1:というか、会話してるとしょっちゅうマックス・ヴェーバーの概念が出てくるので、話している内に自然と叩き込まれる

*2:朱子学ローカライズ」が一応の結論なのだそう

*3:もしすんなりこの言葉を飲み込めないのなら、その人は「少年漫画に対する感じ方」がぼくとは異なる人なのだろう