ユリイカの記事を振り返って
イズミノウユキ「ヘブン・ノウズ・ハウ・ザット・ビジョン・イズ」への反応に対する反応
前からやろうと思っていた作業なんですが。
ユリイカの荒木飛呂彦特集号が出た後で、拙論に向けていただいた反応を集めてクリップしてみたいと思います。まぁ自分用の備忘録ですね。
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そういえば、あまり認識されていないような気もしますが、ぼくがあの記事で書いたのは「荒木割り」についてだけではなくて、荒木絵が表現する「神の視点」についての視点論も後半で書いているのですけど。*1
しかしWikipediaの「荒木飛呂彦」の解説内にぼくの記事が引用されていることを知った時は「おお!」と思ったものです(と、ここから既にクリップ作業に入ってます)。
荒木飛呂彦 - Wikipedia
この変形ゴマは『ジョジョ』第3部後半より使われるようになり次第に頻度が増え、それに従いコマ外の余白が増えていったが、第7部『スティール・ボール・ラン』では全ページがタチキリ(ページの端いっぱいまで絵を入れること)で描かれるようになったため余白が激減した。このタチキリの使用については、第7部の舞台である西部アメリカの広大さを意識して取られた方法ではないかと指摘されている[11]。
「余白(間白)」についての分析を拾ってくれてるあたりが細かいですね。
「荒木割り」の概念のオリジナルはもちろん「メビウス・ラビリンス」さんによる「荒木飛呂彦のコマ割りの原理」なんですが*2、間白についてはぼくが独自に調べた部分なんですよね。
大炎上 | ユリイカ増刊 荒木飛呂彦特集号が恐ろしいまでにステキ
これはイズミノウユキさんによる『ヘブン・ノウズ・ハウ・ザット・ビジョン・イズ 〈ねじれる視線〉と〈神の視点〉の可能性』という記事(というか、もはや論文)。
確か、一番最初にブログで言及していただいたのが大炎上さんだった気もします。ユリイカの紙面の携帯写真もあり。
http://d.hatena.ne.jp/roki_a/20071113/p1
すごい!凄い執念で書かれている!……まあ、これ位やって漸く評論の態をしていると思うべきなのかも知れませんけども。えー、とにかく非常に詳細に「コマ割り」「読者の視線」「神の視線」の3つを論じていて、非常におもしろい評論でした。
おもしろいなあ。「コマ割り」の部分は実例がたくさん出されているので、複雑な内容ですが、すごく読みやすい。今までコマ割なんて意識したこと無い人にも、非常に親切です。
以前、一度ここで紹介したこともあるid:roki_aさんの感想。
「ユリイカ」荒木飛呂彦特集全記事レビュー - 三軒茶屋 別館
フジモリの記事ベスト3は「ジョジョ立ち」「イズミノユウキ評論」「瀬藤光利エッセイ」でした。
三軒茶屋さんの感想としては、アイヨシさんの感想も知りたかったかも。
「神の視点」問題については、アイヨシさんとちょっと議論していた内容を反映したものだったりするので。
ちなみに当時の議論の成果は、更に『漫画をめくる冒険 上巻・視点』(→情報ページ)にもそのまま活かされています。
ドメインパーキング
イズミノウユキ原稿をまず読む。というのも理系の論文のように図解資料がやたら多くて、つまりごりごり実証的な論考なのだ。何を実証しているかというと、荒木特有のイタリア彫刻的なマニエリスムの「ねじれ」が、身体のねじれだけじゃなく、コマの傾き(台形のコマ)=まなざしのねじれとしていかに実現されているか。
携帯写真付きで、軽く内容を紹介してもらってます。
Skeltia_vergber on the Web : 多面的・多角的な荒木飛呂彦の世界の見取図のために
イズミノウユキ氏による『ヘブン・ノウズ・ハウ・ザット・ビジョン・イズ』は、本書のなかで一番興味深い論攷であった。
イズミノウユキ氏がアングルの七原則として示しているのは、荒木作品の分析だけでなく、他の漫画作品、さらには小説や映画、テレビ番組における『読む』ことや『観る』ことの分析視覚をさらに広げたものとして、今後の参照点になると思う。アングルの七原則とは次のようなものである;
【原則1 焦点移動】:Pan & Tilt、コマ→コマの移動だけでなく、絵画的な視線誘導
【原則2 アングルの保存性】:Track & Crane, Jump、アングルの角度というものは、次のコマへとそのまま持ち込まれるという「保存性」
【原則3 z軸開店のねじれ】:Roll 2、z軸(奥行き軸)の回転によってアングルがねじれること
【原則4 正面補正】:Pan & Tiltか回り込みトラック&クレーン
【原則5 変形ゴマ】:台形ゴマによる読者の遠近感の錯覚(「奥行きのある面」と認識)
【原則6 サイトラインの一致】:「見つめ合う人物同士の視線をつなぐライン」「視点取得」
【原則7 カメラワークの慣性】:カメラや被写体が移動しながら撮影しているような演出があった場合、読者の視点は実際のカメラポジションが追い越すような位置まで傾いていくことさらに同論攷でいう「神の視点」とは、『ジョジョ』における、一般人には不可視のエネルギーのビジョンであるスタンドが、読者には見えること。さらには『ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム』や『キング・クリムゾン』『メイド・イン・ヘヴン』など、スタンド能力者ですら把握できない図像を読者は観ることができることによることを示している。
そしてそれは『読む』という行為と、コマ割りや画像、図像など描かれているものを『観る』という行為、アングルの変化によるさまざまな変化を伴いながら、荒木作品に接し、それを読み込むことによる「読解」という行為にもつながる。
それはこれまでのメディア論やテクスト理論とも異なる新たなる「読み」の位相を提供しているように思うのだ。
「記事の要約」をしていただいてる感じの感想としては、こちらが一番充実していました。
「ユリイカ」増刊号 ジョジョ特集: 卒塔婆コンドミニアム
それよりも「What is the Omniscient perspective ?」以降が面白かった。
5部終盤のワケのわからなさ具合とか、時々出てくる、表現として失敗してるんじゃないか?
っていうスタンドの能力、効果、というか描写の意味、理解し難さがスッと腑に落ちた。
荒木飛呂彦の古典主義的な傾向と、西洋の絵画史との繋がりもちゃんと拓けていたし、
何より、今まで『ジョジョ』の中で納得できなかった部分がキチンと納得できたのはイイ。
少なくともそういう活路を個人的に見出せたのはイイ。
全能な神の視点を模倣しようとし、恐らくは失敗し続けている、
そんな現代の芸術家の挑戦に、学ぶべき現代性があるとすれば、
まさにポストモダンの典型的な用語だが(手垢まみれで嫌になるが)、
脱人間中心主義のアプローチの一つがここにあるのだろう。
荒木割りではなく視点論の方で、こういうちゃんとした感想いただけるのは嬉しかったです。
mid-studio.blog:- 鋼鉄の魂は走りつづける - - livedoor Blog(ブログ)
中でも興味深く感じたのは、イズミノユウキ氏の『〈ねじれる視線〉と〈神の視点〉の可能性』という考察だ。
現場での制作技術やマンガ家が持ち合わせる理屈抜きの感性の部分を無視したかのような(無視せざるを得ないのか?)理論の当てはめを展開してくれることは、マンガ家として率直に自己分析にも繋がり有り難い。
なんと、荒木飛呂彦の元アシスタントさんらしき方(中祥人さん)からの反応。
「無視せざるを得ないのか?」という問いかけに関しましては、半分以上はその通りですね。
「受け手目線の分析」と「送り手目線の技術論」がうまくフィーバックを起こす場を作ることができれば、それが理想的なんでしょうねと思います。
ユリイカ:総特集 荒木飛呂彦 - Buddha-Over-Flow
あとは荒木割りと呼ばれるJOJOの独特のコマ割に関する分析が出ている。
下記のサイトの分析を参考にしているらしい。知らんかったがこれはおもしろいとオモタ。
http://moebius.exblog.jp/6209565/
11/18追記
この本の中で荒木割りをさらに詳細に分析しまくっていた執筆者のイズミノユウキ氏が、今回の本の感想を書いていた。
漫画の批評ってこれからもっと発展していくのだろうけど、今はまだ過渡期でいろいろ試行錯誤してるんだなあとオモタ。
まだまだ過渡期なんです。
漫画 | 心の折れたAngeL
ここ数年、身の回りの付き合いから、漫画を研究するということについて様々な示唆を受けている。特に、一昨年、伊藤剛の「テヅカイズデッド」の読書会に2度参加し、漫画の表現が構造としてどう成立しているのかを検討する伊藤の試みに非常に感心を受けた。漫画研究を真剣に試みる人々にとって、伊藤の本は、フレーゲの「算術の基礎」ばりの強度を持った道標として再読され続けるだろうと個人的には思った。とはいえ、一方で、その本の書き方の難渋さから伝わるように、漫画の表現論とはまだまだ萌芽状態であり、この著作を踏まえて、後進の人々や伊藤と同世代の漫画研究者がどんな応答を返すかによって、漫画表現の研究は「始まったり」、「終わったり」するだろうと個人的には考えていた。
同時に漫画という物理的なメディア属性を念頭に視線の動きとコマ構成の研究を進めるイズミノウユキの研究が今、ものすごいことになっている(んで、イズミノ氏も「テヅカイズデッド」は当然読んでいるだろうから、上述した4つの試みがすべて伊藤剛の著作に対する生産的な応答だと個人的には思う)。
これは今年に入ってから拾った反応で、色々と考えさせられるものがありました。
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記事発表後における「荒木割り」についての所感
これもブログに書こう、書こうと思って書いていなかったのが、今年『ジャンプSQ』に掲載された読み切り「岸部露伴は動かない」に関する研究報告でした。
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SBRで一旦「荒木割り」の使用をリセットしていた荒木飛呂彦が、第四部の時代を描くときにどんな表現を選ぶのか? というのは一読者としても非常に興味深い問題だったのです。
結果として発見できたのは、以下のようなポイントでした。
- 間白の幅:四部と同じ幅を用いているが、荒木割りは抑制されている(サスペンスの要所でのみ使用)
- タチキリの有無:露伴が「杜王町の中」にいる間はタチキリを使っていないが、「杜王町の外」に出るとタチキリが使用される
- つまり「街の中(閉じた空間)」を描く場合はタチキリを用いず、「街の外(開いた空間)」を描く場合はタチキリを用いる、という法則を実証している
- 結論:四部のコマ割り(幅の広い間白)と、SBRのコマ割り(タチキリの多用)の融合が見られる
荒木先生自身にとっても、「部」によってコマ割りのスタイルが違う……というのはどのくらい意識してることなんでしょうね。
少なくとも「第四部のコマ割りは間白の幅を広く」っていうのは意識していたらしい……というのは、この読み切りから窺えることなのですが。
そうそう、あとジャンプ漫画といえば、『PSYREN−サイレン−』の岩代俊明が急に荒木割り(の亜種)っぽいコマ割りを良く使うようになったんですが、どういう思いつきでそうしたのか不思議だったりします(荒木割りになるシーンとならないシーンをどういう基準で区別しているのかも良くわからない)。
ちなみに『みえるひと』時代には一切使ってなかった表現であって、本当に突然出てきたスタイルなんですよね、あれ。
今のジャンプ連載作で、こういうコマ割りを使っているのは岩代俊明一人なので、余計に気になっていたりします。誰か謎を解明してください。
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