HOME : リクィド・ファイア
 移行後のはてなブログ:izumino’s note

13日の日付に書いた話は

 去年書いた「愛し萌え」と「愛され萌え」という話の延長にあります。以下はそこからの抜粋。

萌えオタクには「愛したい願望が強い派」と「愛されたい願望が強い派」の二派に結構別れるんじゃないか

 まぁ、今回は「別れるんじゃないか」みたいな軽い問題提起じゃなくて、少し攻撃的なニュアンスも込めていますけど。

 この二種のタイプの萌えは、別個に分けて考えないとかなり意見がすれ違いそうなので、萌えについて語る際には意識しておくに越したことが無いと思います。

 ……なんて自分で書いて締め括っているのに、そういう前提で分けずに非モテなんて言葉を使ったのは、良くなかったですね。すみません。

 先日の記事は、コメント欄を見ても「愛したい派」と「愛されたい派」が明確に別れているような印象を受けます。
 やっぱりこの二派の意見は、互いにすれ違うんでしょうか。あえて積極的な書き方をしてみたのは、それを確認してみたかった、というのもあります。どうなんでしょう。

(以下、話の眼目を少しズラします)

 というのも、去年の記事では註釈の所に、

例えば、後者寄りの本田透が自分の主観全開で『電波男』を書き上げているのと同様、(多分)前者寄りのササキバラ・ゴウもかなり主観で萌え論を展開していることが解るんですが、でも『電波男』はいかにも自分語りの私小説として書かれているのに、ササキバラはオタクの一般論として考えようとしているのが少し気にかかります。だからぼくと正反対のタイプであっても、より高い説得力を本田透の側から感じるわけです

と書いていたのですが、今ではその本田さんの側に「自分語りを一般論として考えようとしている」傾向を感じるわけです(まぁ、本田さんは「自分の評論は基本的に電波だから」と考えてて、一般論に広げるつもりは無いようなポーズもありますが、そのポーズも最近通用しにくくなってきてると思います)。
 例えば『メカビ』内の記事にも、「何かを一方通行に愛する」という選択肢は全く出てきません。「現実の愛」の話になると、すぐに「恋愛(と、その不可能性)」だけに話が絞られて、友情とか、片想いの場で活躍する「愛」は話に上らない。必ず「現実では愛されないから、もう愛するのはよそうじゃないか」という論調へ帰結させようとする。


 本田さんや、その賛同者の方々が「愛されたい願望」を主体に持ち続けるのは(個人の選択なので)構わないのですが、オタクの中にはぼくのように「別に愛されなくったって、愛すも愛さないも俺の勝手だろう」みたいな人間も沢山居る筈なので、スポイルしてほしくはないわけです。
 「萌えは多神教」というスローガンを打ちだして、その多様性と包括性を強調するからには、是非とも論調の中に取り入れてほしい要素であって、そうした方が広く受容されやすい論になるのではないかとも思います。
 何より、そういう要素を無視してしまうと「オタク同士、気のあった人間同士が仲良くする」ということ(本来は難しくもない、自然なこと)自体ができなくなる筈ですしね。

 連想で思い出しましたが、半年ほど前に書いたこの記事も、今している話題に近いのかもしれません。