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語感の力

izumino2006-03-16

 NHK教育の「知るを楽しむ」でやってる日本語なるほど塾がめっちゃ面白いです。

男の子の名前はいろいろあるが、呼ばれた時に受ける印象にはそれぞれ違いがある。例えば、「タケシ」ならやんちゃそう、「ユウ」なら優しそう、といった具合だ。こうした名前ごとに持つある種のイメージには、発音した時の口の中の感覚「発音体感」が大きく影響しているという。

 今は「語感の力」をテーマにしているんですが、カラーコーディネイターばりの分析を日本語の五十音に対して行っており、今まで漠然と捉えていた「語感」というものの実体を現してくれています。
 口の中や、脳の中で起こる「身体感覚」という、ナマの実感に基づいたデータベースを志向しているのが好感持てますね。*1人間の肉体(=感覚)を無視した、言葉だけの創作理論とかは、ぼくは嫌いなんで。


 まぁキャラクターやロボットのネーミングだけでなく、萌え業界にありがちな「四文字タイトル」にも応用が利きそうな話です。
 あと「萌え」というスラングの成立過程も、やはり語感の力から選ばれた部分が大きいのでしょうね。
 ただ、そこで「語感がマッチしていたから選ばれただけで、言葉の意味は関係無かった」と考えるのは早合点というものであって、そもそも「萌える」はその語感が元の意味(英語で言う“sprout”の方)にマッチしていたからこそ、自然とそういう発音に達した筈で、だから広い視野で捉えると、“sprout”の意味の「萌える」と、今スラングとして使われている「萌える」は、その語感を通して意味的にも繋がっていると言えるんでしょうね。


 ぼくはこういう、表面に見えるものだけを比較したりするのではない「通底するもの」を探るのが昔から好きみたいです。難しいですけどね。切ったら血が出るようでないと。
 その「底」に触れてない理屈はただの言葉遊びであって、エンターテイメントやパワーゲームの域を出ないというか。必然性があれば、それでもいいんですけど。
 ただ「底」に拘りすぎるとオカルト方面に向かってしまうので、匙加減がまた難しいのですが、その匙加減の難しさこそが人間の髄、といえるものでしょう。

関連

 講師の著書『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』のレビューをリンク。

 ここのコメント欄に

2つの言語の単語を出して、
「音が似ているから語源は同じ。」というのは言語学ではご法度なんですがねぇ・・・
共-Coやそう-soの話は
「『坊や』とboyは音が似ているから語源が同じ」
っていうようなもんですよ。

という意見がありますが、これなんかが、言葉の表面だけで物事を考えようとする思考の典型だなぁと思います。まさにその「坊やとboy」が語感で繋がっていることを説明しているというのに。*2
 「底」に触れようとしてないですね。

*1:最終的には感性の問題なんで、そこで算出される数値やパラメータ自体は参考程度にしかなりそうにないですが、そのくらいの信頼性しかありませんよっていうのがすぐ解る程度加減も良いですね

*2:リンク先の記事内で「語源」という言葉の使い方が適切でなかったのは確かですが、文脈に注意すれば本来の意図は読み取れる筈でしょう