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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

解説終了

 萌えの入口論の解説が終わりました。
 自分の文章に自分で解説をつけるという野暮なことをしていたわけですが、余計な付け足しだったかなと思うものの、相応の参考にして頂ければと思います。


 また思い付いたことを一つ。
 オタクというものは──というより、ある程度マニアレベルの高い大人は──自分の趣味に対して保守的になるものですから、新しい表現に対して、その「敷居」を乗り越えるのが困難になっていく面があると思います。
 「この作品には自分にとって入口が無いからハマれない」、という感想も確かにアリなんですが、それは同時に、敷居を自分で乗り越える努力をしていない、ということでもあるでしょう。
 そして、新しい表現というものは、そうしたマニア層にとって敷居の高いものであっても、(マニアずれしていない)若年層にとっては敷居の低いものであったりします。
 この場合、マニアの保守性が勝手に「敷居」を作ってるだけなのだ、という見方もできます。まぁ、そういうマニアに対して丁寧に入口を用意してあげることこそがサービスなんだよ、と言うこともできますが。


 先日例に挙げた「萌え四コマ」の世界*1もそうですね。ぼくの周囲では、萌え四コマは「入りにくい」という見方がされていて、あの世界にハマるにはトレーニング(ハシゴの入手)が必要なんだよ、という評価が定説になっているのですが、この見方が全ての漫画読者に当て嵌まるわけではない。
 コンビニ売りの萌え四コマ雑誌は、どうも若年層をターゲットにしているらしく(?)、むしろ、コマ割りが単純で絵柄もシンプルな四コマのフォーマットは、若い読者にとって「敷居が低い」表現であるようです。多分、女性読者にとってもそうなんでしょう。


 一見「敷居が高い」ように思える表現でも、大局的な視点で見れば「敷居の低い」表現であるケースはままあると思います。
 つまり、「敷居」で中に入った人達を囲い込んだままカルト化していくジャンルもあれば、ある層に対する入口を狭めながらも新しい客層を獲得できるジャンルもあって、この二つは分けて考えた方が良さそうです。
 芸術や音楽なんかもそうで、最初は受け入れられにくい表現であっても、普遍的なエッセンスがその中に含まれてさえすれば、やがて洗煉されてポピュラーに受け入れられるようになります。


 そもそも「萌え文化」自体が、古いオタクにとっては敷居の高い世界であって、未だに咀嚼できない人が大量に残存してる筈ですけど、そのエッセンスが洗煉された今は、若い人達がストレートに入り込める世界になっていたりするわけですからね。

*1:極上生徒会』のようなアニメも含む