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週刊誌の漫画をラーメンに喩えると

 週刊少年漫画を分類するお遊びです。


 映画の「役者と脚本」を、ラーメンの「麺とスープ」の関係に喩えるお遊びは割と一般的なものだと思います。
 映画の場合は更に、「具(トッピング)」を「演出やネタ(アイディア)」に喩えることも多いですね。
 ではこの「麺、具、スープ」の喩えを週刊誌の漫画でやってみるとどうなるでしょう。多分、似たようなことを考えている人は(業界の中には)多いと思うのですけど。 


 映画と違って漫画の場合、ストーリーよりも「絵」にかかる比重が大きいので、

  •  麺  : キャラ
  •  具  : ストーリー(ドラマ、ネタなどのアイディア)
  • スープ : 世界観(絵柄、作風など)

という感じに置き換えて良さそうです。ストーリーが「具」の扱いに後退し、絵柄などの作風が「スープ」になるのではないでしょうか。
 一本の映画の場合は「一筋のストーリーの流れが作品を通底して支配する」ことになりますが、「物語を話数で分けて連載する」週刊誌の場合、ストーリーはあくまで各話ごとの「読み切り」でしかなく(単なる「ネタ」のひとつに過ぎない)、通底して作品を支配しているのは「絵柄」であり、その作品の「お約束」や「カラー」、いわゆる「世界観」だということになるでしょう。
(この場合の「絵柄」っていうのは人物のキャラデザなどよりも、背景や描線のタッチを含んだ作画のトータルコーディネイトを指します)
(「世界観」も、ガジェット単体の魅力や設定の法則性を重視した、いわゆる「設定オタク」や「蘊蓄マニア」が好むような意味ではないので注意。大雑把に「作風」と言った方が正確かも。ぼくは強引に「漫画柄」っていう造語で説明してしまう時もあります)


 麺が強い漫画は「キャラ漫画」、具が濃い漫画は「ストーリー漫画(アイディア漫画)」、スープが濃ければ「世界観漫画(絵柄漫画)」と大雑把に呼んでいい感じですね。
 では実際に、「キャラクター派のジャンプ」と「ストーリー派のマガジン」と区別されがちな二誌を比較してみましょう。まぁどれもぼくの独断と偏見で決めつけているので「いや、俺だったらこう思うけどな」くらいの気分で読み流してください。
(ちなみにサンデーは完成度を重視する社風?があるので、どの要素もソツ無く備えている作品が多いと思います。あと、個性派揃いのチャンピオンは考えるのも面倒なので比較しません。)

ジャンプの場合

 ジャンプ系は総じてドラマと世界観が薄く、キャラが強い。
 例外は「ネウロ」や「ボーボボ」のようなギャグ漫画(ホラー漫画?)の類で、あれはドラマが薄い代わりにアイディアのアクは強く、また、絵柄による個性の主張が強いことからも分かるように、世界観も濃い目です。
 完成度の高いハンタはどの要素も一様に備えており、バランスが良い。過去作品だとジョジョと同列で、デスノートもそのラインに近い。
 Dグレイマンはキャラデザと絵柄の魅力だけが取り柄ですが、個性的な世界観を構築できるほどではないので、そういう意味では「スープが薄い」と言えます(過去作品だとブラックキャットと同列)。
 ブリーチはキャラ漫画なんですが、雰囲気的な統一感(オサレとか言われてるアレ)はやはり取り柄ですね。だからスープもその程度には濃い、と。
 「タカヤ」がイマイチ飛び抜けられない理由は、そりゃあ、キャラ以外の素材が薄すぎるからなわけで。最近打ち切られた「ユート」は、具は良かったけど麺とスープが……という例でしょうか。
 テニプリについては後述します。

マガジンの場合

 ドラマ漫画が多く、キャラは薄いのが普通。涼風でもそう。
 舞台も「現実と地続き」な現代モノが多いので、濃い絵柄や世界観は少ないです。例外はキャラの主張が濃い目の「一歩」や「RAVE」あたりでしょうか。
 ジャンプのDグレイマンと同じ「絵柄だけが取り柄」な路線にあるのが、エアギアやツバサ、トトなど(トトは最初「キャラ+ドラマ漫画」をやろうとして挫折した観アリ)。
 スクランや神toのようにギャグ漫画の入った作品は、キャラとアイディアがキモなんですが、世界観を雑にしておくことによる魅力が大きいです。あの「お約束の一切通用しないなんでもアリな作風」や、独特の画面構成(真っ白で淡泊なスクランと、パラノイアックに汚い神toの画面は対称的)が無いと、あのキャラやバカ展開も成立しないでしょう。
 あ、あと“翔”も実はそのタイプかな。

魔法先生ネギま!』は「キャラクター漫画」か

 ネギまはこれは、実は明らかな「世界観漫画」だと思います。
 作者が細心の注意を払って気を配っているのも、おそらく世界観のコーディネイトでしょう。
 あの大量のキャラクターを一人ずつ立たせようとすると必ず無理が来る(麺を強くしすぎても食べられない)のは明白なわけで、普通の「キャラ漫画」の手法ではやっていられない、ということは本人も承知していることだと思います。
 萌えキャラの表現にしても、赤松健は「私は(いい歳なので)最近の萌えを理解してないですよ」と言い切ってしまうような人ですし、数多ある「他の萌え漫画家」の表現力に対する力不足は本人も認めているようです(で、この発言に対してぼくなんかは「それは謙遜だよな」と思うのが五割、「事実まぁそうだよな」と思うのが五割といった所)。


 だから実際、ネギまの各キャラってのは結局「弱い」んですね。まぁ弱いとは言っても他のキャラ漫画に比べての話で、可能な限り強く打ってはいるんですが。
 で、ネギまは単純に「弱いキャラを何十人もタバにすれば強くなる」という打算で作られている漫画では勿論なくて、そのキャラ=麺の弱さを、世界観、つまり「麺が浸されるスープ」の側の質を高めることでカバーしようとしている漫画だと思います。


 何故その弱いキャラで「キャラ漫画」が成立している(ように見える)のかというと、作画(特に背景)のアベレージを維持することを初めとし、作品トータルの世界観を統一することに拠る部分が大きい、とぼくは解釈しています。
 世界観を統一するというのは、要するに、「作中で起こってはいけないこと」や「作者が絶対やらないこと」「作品に期待される出来事」などが明確に伝わる雰囲気を作り上げ、キャラクターはそれに乗っかることで魅力を引き出せるシステム(舞台)を用意する、ということです。
 そういう世界を構築しておけば、キャラクターがほんのちょっとした仕草や言動を示すだけでも何故か魅力的に見えてしまうし、まぁ具体的を言えば、パンチラやヌードがポンポン出るような、即物的にHな雰囲気で作風を統一しておけば、逆に心理的な恥じらいのあるシーンなんかは異様に目立って映るわけです。
 格闘大会における魔法生徒の二人なんかがそういう「キャラは弱いのに、何故かキャラは立っている」例でしょう。
 もし同じようなことを別の漫画でやった所で、おそらくあの二人は「ちっともキャラが立たない」だろうと思います。そういった効果が「世界観=スープ」によって左右されるものではないでしょうか。
 ネギまの世界で「三角関係」や「横恋慕」を行うことが、とても貴重に映るというのもそうですね。三角関係なんか、普通のラブコメなら「あっそう」で流されるネタでしょう。
 こうなってくると、究極的には「どんなキャラがどんな些細なことをしても魅力的に見えてしまう」という(漫画家にとっては)夢のような状態が起こりうるわけですが、まぁそれは極端な理想論ですね。


 ですから、多分ネギまの世界に「個性の薄いキャラ」を投入してもそれなりに魅力的に映る筈だと考えることもできます(っていうかそういう例を示すキャラが既に多いのですが)。
 逆に、そこそこ個性の強いキャラクターが活躍した場合、本来備えている魅力以上の魅力が引き出されるだろうとも言えます。
 また、いわゆる「どっかで見たようなキャラ」でも、赤松健の漫画に出た途端にまた違った魅力が見えてくる、という現象が起こるのも、赤松健が自作の世界観を丁寧にコントロールしている為でしょう。
 そういった「トータルコーディネイトの力量」が、赤松健の漫画の巧さの本質だと思います。


 ちなみにですが参考までに、赤松健が考える作画コーディネイトに関する記述を引用しておきます。


私の作画に関する価値観は、「アップルシード」あたりから来ているため、
多分情報量が多くないと不安なんですよね。小さい面積に色々集積させて
「閉じた世界観」を作るのが好きみたい。
(あと2002年の3月30日以降も参考になる記述ですが、この人は例によって感覚的で説明不足な書き方しかしてないので、正しく意図を読み取るのは難しいかと)

キャラクターが沢山出てくる漫画における世界観の重要性

 ある意味では、赤松作品のように「世界観主導」で「弱いキャラ」をポンポン出していく手法は、古くは男塾やキン肉マンや星闘士星矢、新しくはテニプリなどの、ジャンプ系キャラ漫画にも通じる形式だと思います。
 これらも「民明書房で説明すればオッケー」、「適当な単語にマンを付ければオッケー」、「美形が星座の鎧を着ればオッケー」、「美形が誰も予想できんようなテニス技を出せばオッケー」という世界観あってこその漫画というか。
 魅力的なキャラクターを効率良く沢山出すには世界観が重要だ、ということは、漫画制作の基本としては言えるでしょう。麺の量が多いラーメンは、良いスープが必要だという感じですね、喩えで言えば。


 そんな手法の中において、突発的にやたらと濃いキャラがいきなり登場するのがジャンプ漫画の特徴かもしれません。
 例えば男爵ディーノとか。