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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

情報を送ることについて

 「情報」というものは商業の原理と同じで、「ある」所から「無い」所へ届ける、つまり熱移動のごとく「知ってる人達」から「知らない人達」へと伝達することが理想とされるわけですが。
 例えば、あるグループの中では当たり前だけど、一般的には理解されていないようなことを記事にする、など。
(お互いが持っている情報の正確さを確認しあって充足することを目的にした、ローカルな情報のやり取りの場合はまた別。)


 評論とかだと、「世間的に名作として認知され済みの作品を誉める」ことは程度の低いことだと言われがちで、評するにしても、誰も思い付かないような「発見」を伴わなければならないように。まぁ、かといって素っ頓狂で裏付けの無い自説を吹聴してもしようがないんですけどね。
 批評に限らず、報道でもそうです。


 その点で言えば、手前味噌ながら赤松健論は恥ずかしくない評論の仕事をしたという自負が今でもあります。一応は「人気作家」である赤松健の作品を、まさかこのような視点で語りきれると考えた漫画読みは、あまり居なかったことでしょう。漫画読み達の目から逸らされ続けてきたと言ってもいいかもしれません。
 現に、漫画専門誌で赤松健が取り上げられたことは(ぼくが知っている限り)一度しか無かった筈。
 たとえ赤松作品が、有名なヒット作であろうと、赤松健論による「切り口」が無ければ、ネットでもまともに評価されないままだったのではないか、と思うフシもあります。
 赤松健自身の作家像にしても、彼は誤解を受けやすい「損な性格」の人間ですから、おそらく的外れな認識を受けたままだったことでしょう。
 どうせならそういう、「知られていない」ことを伝えられるような記事を手掛けたいといつも考えています。


 その逆に、ネギま!で遊ぶでやっているような各話感想の場合は、どうしても「みんな解ってて当然のこと」まで書く割合が増えるので、書く側の満足度としては下がりがちになります。
 でも一般ウケを狙うとなると、こっちの方が需要が高いのですから、なかなか難しいものです。
 それにあちらは「読み物」としての側面が大きいですから、思ったことをそのまま書けませんしね(そういう意味では、「色」を付けて書いてある部分が大きいのです、あれは)。


 例外的に満足できたのは、やっぱりコマ内レイアウト論の記事です。これも「知ってる人にとっては当たり前の」「基本」ではあるんですが、大抵の人にとっては知らない世界でもあるわけで、久しぶりに「発表する意義」を実感できる記事でした。
 ああいうのをまたやって、読んでもらいたいですね。
 そういうのをポンポン書けたら素晴らしいんですが、まぁボチボチやっていきます。