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「萌え燃えジャパン」最終回に赤松健インタビュー掲載

 結構な分量がある上に、リップサービスも珍しく豊富。急いでローカル保存。
 しかし研究者として、断片的な情報から「勝手な赤松さん像」を作り上げて満足している(笑)当方のような人間からしますと、こういう公的な文書というのは「怖い」ものだったりします。
 自分自身のイメージが崩れるというのもありますが、世間的に曲解されやすい書き方をされてないだろうか、という不安の方が大きいかもしれません。
 それにインタビュー内容は結局ライターが編集するものですから、書いてあることが全て信頼できるというわけでもありませんしね。


 例えば3頁目に「監督ではなくプロデューサーです」なんてデカデカと書かれていますけど、これなんか明らかにライター側が付けたコピーであって、そこで読者は普通「監督」といえばメガホンを持って指示だけする人、「プロデューサー」といえば企画を考えて後は細かい世話を焼くだけの人、みたいな仕事姿を想像するわけですけど、実際に一番手を動かして仕事してるのは赤松さんなんだから、まず第一に「漫画家」であって、その漫画家の性質としてはプロデューサーに近い、ということを本当は言ってるわけです。それしたって、赤松さんがやってることも結局「監督」の仕事でしょう(ついでに言うと、週刊誌の連載作家は誰だろうと己の作品の「監督」にならざるをえないことをお忘れなく。逆に「監督的じゃない週刊漫画家」なんてのが居たら教えてください。ショート漫画家以外で)。*1


 「自分の趣味よりも売れそうなキャラクターを用意している」というのも誤解されそうな書かれ方で、赤松さんの場合その売れセンのキャラクターを結果的には自分自身が気に入るように描いてしまうから漫画の中に嫌味が無いっていう部分も結構ある。だから、好きじゃないものや良くわからんものを描くことはあっても、嫌いなものを描くことはそうそう無い(まぁ多少はあるだろうけど、それを言うなら普通の漫画家の方がよっぽど嫌いなものを嫌々描かされてることがしょっちゅうある)筈。
 キャラクターに対して一見冷めているようでも、並の作家以上にマイキャラに対する思い入れを持った人だ、というのは他の媒体を読めば窺い知れる作者像なんですが、赤松さんは多分、その「作者の思い入れ」すらも「キャラクターの私物化」だとか「エゴ」だとかと認識して抑制しようとする人で、そんな客観性の強さが冷めて見えるだけではないかと思います(で結局、たまーに抑制を緩めて自分の趣味をさらけ出してしまうあたりは普通の漫画家と変わらない)。
 そういうニュアンスが伝わらない書かれ方が多いので、赤松さんはいつもこういう所で損してるよなぁと。
 まぁ、要らぬ心配なんでしょうけど。


 だから個人的に面白いと感じるのは以下のような発言であって、

いや、私なんかは同業者からは、「芸術家じゃない」みたいないわれ方をしてて、相当尊敬されていないですよ。商業主義だから。ハリウッド的なところとかね。たぶん小室哲哉つんく♂も同業者から尊敬されていないかも、と思うんですけど、私にもそういう側面があります。しかし、私はそれでいいかなと考えているんですよ。人から尊敬されるためにやっているわけじゃない。読んだ人によろこんでもらおうと思ってやっているわけですから。たぶんモーニング娘。が落ち目になっちゃったら、つんく♂はすごく悩むでしょう。しかし普通のミュージシャンならば、好きな曲を書いて、好きなように歌うことができて、それで少しでも人にいいと感じてもらえれば満足だと思うんです。しかし私はそうではない。薄っぺらい商業主義だと自分でも思いますけど(笑)。

 これってクリエーターに限らず、我々の人生にも引きつけて考えられる「世渡り」の話で、要するに我々は「自分らしくあれ」と言われて育つわけですけど、じゃあ自分らしく生きた結果が人から望まれない生き方だったとしたらどうするのか。もしそうだと突きつけられることがあったら、それは凄く怖いことでしょう。それでも自分の個性を貫くことができるのか。
 人の好みに合わせることで人を楽しませられるのなら、そうした方がいいんじゃないか。良く言えば協調性ということだし、悪く言えば媚びるということなんですが。


 だから『ラブひな』の景太郎がヒロイン達にモテる過程で、師匠と同一化して個性を薄めていって、しかもそういう自分の姿を受け入れる度量すらあった、というのは、赤松さんの人生観が変に出ていて面白い気もするんですね。
 それでも良く注目すれば景太郎には景太郎らしい個性がちゃんと見えてきますし、それは表面からは感じ取りにくいけど、それこそ「少数の人間に理解してもらえればそれでいい」ものだったりする。『ラブひな』という作品の読者人気もそれと似たようなことではないか。
 しかしそうしてモテても(『ラブひな』が人気を得ても)やはり、表面的な個性が薄ければそれはそれでつまらない、個性を貫くべきだ(=貫いた結果、世間に受け入れられなくてもそれは仕方がないものだ)、という真逆の批判も受けてしまうのが世間の難しい所であって、そういう意味では、赤松さんが新作の『魔法先生ネギま!』において「自分らしさを失わない主人公」を描こうとしていることが、とても意味深な変化だなと思うんですね。


 いわゆる「作家読み」ではあるんですが、実際ぼくが赤松漫画で一番楽しみにしているのは、そういう作品内の「個性」と「協調性」の匙加減をどうつけるのか? という、バランス取りが窺える部分だったりしますから。


補足→id:izumino:20050224#p1

*1:ついでに小室哲哉のフォローをしておくと、彼も結局は自分の作った曲が人にどう受け入れられるのかが知りたくて作曲してるミュージシャンなんだよな、と思う