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飛龍乱先生のアニメ版ネギま感想

 最後に、アニメ感想サイトとしては結構有名なようこそマジカルポットへ飛龍乱先生がいいことを仰っていたのでちょっと引用してみます(2005年1月6日)。

魔法先生ネギま!』01.「Asinus in cathedra」
 原作の赤松 健先生は、非常に優れた「秀才」タイプなのだと思う。
閃きのままに、凄まじい作品を作ってしまう「天才」タイプではなく。


 多くの人の嗜好に合いそうな物語を、「ありふれた話」にせず「奇矯な話」と呆れられもしない程度にヒネってオリジナリティーを加え、とにかく考えつく限りの手練手管(そのバリエーションが実に多い)を駆使して、客に面白いと思ってもらったり、如何なる意味でも関心を持ってもらうためのフック(引っ掛かり)を無数に挙げた作品を作り上げる。
 様々に個性を持たせた女生徒31人のキャラ設定を最初に決め、声優を決定し、しかも全員のCDデビューまでプロジェクトに含めてしまう*1、という凄さで、今は亡き『かってに改造』に おいて「そこまでやられたら もう何も言いますまい」と言わしめる事も、俯瞰すればフックの一つだろう。


 だから、アニメ化にあたり、適当な考えで内容を変えてしまうと、その計算ずくで突き出されたフックのいくつかがダメになってしまう。

 セールス的には成功していて支持者も多いTVアニメ版『ラブひな』については置いておくとして、赤松健原案の『陸上防衛隊まおちゃん』が失敗した理由っていうのはまさにそこなんですよね。


 飛龍先生の意見に付け加えるなら、赤松さんを「秀才」たらしめているのは「良く出来た初期設定=素材を作りあげる」才能では決してなくて、「仮に凡庸な素材であってもそれを脹らませて良く出来た完成品を練り上げる」才能がそうさせてるんですね。「フック」もその練り上げる過程で生まれると思います。
 秀才とは往々にしてそういうものでしょう。優れたアイディアを泉のように湧かすのではなく、既存の素材(あるいは自分が過去に成功させたオリジナリティの残滓)をいかに創意工夫して活かすか、こそが才能の根拠になる。
 だから、そもそも「原案」という役職は赤松さんに向いてないとも言えます。赤松さんをプロデューサー的、監督的と評する人は多いですが、赤松作品は作者本人が仕事しないと面白くなりゃしないんですよ
 「陸まお」最大の問題点は、赤松さんが考えた「凡庸な素材」を「良く出来た完成品」にまで練り上げようとするスタッフが不在であったということでしょう。陸まおのスタッフは「“あの”赤松スタジオが考えたアイディア!」として初期設定を神聖視していた所がある(ラクガキかギャグのようなデザインやアイディアがそのまま採用だったりするし、ネタ出しの合宿でも赤松さんの意見にイチイチ感心していたりする)んですが、そのアイディアを創意工夫して完成させない以上、「秀才の作品」としては全く意味を為さないんですね。


 ネギまのアニメ版も同様で、アニメスタッフがアニメで採用しようとしているのはキャラクターデザインや性格設定、舞台背景といった「素材」のレベルでしかない。それらは赤松さん自身が動かさないとダメな素材なんですね。単体で「キャラ立ち」しているキャラクターは皆無ですし、斬新なデザインやアイディアも(そりゃちょっとはあるけど)ありません。
 だからスタッフの中に、よっぽど優れた「秀才」タイプが居なければこのアニメは成功しないでしょう。


 ……とおっとっと、まだ第1話なのに結論まで書いちゃったなぁ。まぁ、アニメ版の今後には期待しています。タイトスケジュールな深夜アニメという時点で評価ハードルはババ低ですので、大それたものは期待していませんしね。ネタアニメとしては多分今一番面白いですよ(笑)。

*1:一応指摘しておくとこれはやや事実誤認で、ヒロインの声優決定やCDリリースやアニメ化に対して赤松さんは基本的にノータッチです(原作者としての仕事を除けば)。むしろ作者が反対していた無謀な企画をスタチャ大月Pが押し切ったという形らしい。最初からマルチメディアのプロデュースまで視野に入れてコントロールしようとするCLAMP(というか大川緋芭)や介錯とは違って、赤松さんは「漫画家」の職分からあまり出ようとしない方なんですね。あと話は逸れますが、大川は実は天才に近いタイプだという気もします。正確には「昔は天才だったけど今は秀才に転身している」タイプかな。現在、過去の素材の再利用でしか創作できないのと、未完の『X』を完結させることができなくなってることも、タイプの転身という理由があれば頷ける