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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

アニメスタジオを擬人化して語るような人達

 ネットで良く見かける、「大きな声で話す人達」あるいは「小さな声を拡声器にかけて流すような人達」についての話だと思うんですが……。
 何が大きな声で、何が小さな声なのかはわかりにくくなることがありますね。
 

マンガ☆ライフ | 「制作会社が○○だから嫌だ」と言うのはやめようぜ!と言う話

なんというか。「そこまでして叩きたいのか」というしかない。
この記事でもそうだけど、「良かった!」と思えるアニメを完全に無視して「悪いところだけ見る」というのはどうなんだろう。俺にはただリトバスにかこつけてJ.C.STAFFを叩きたいだけにしか見えない。
J.C.STAFFは長く続いている会社なので、いい作品はいくらでもある。


 このスタジオ叩きって、色んな社員が仕事している会社を、ひとつの人格として擬人化させてから叩いている、ってことですよね。
 擬人化しているから、「どんなにマジメにしてきた人間でも、いっぺん悪いと思われたら根っから悪いイメージを押し付けられる」という、人間でよくある不合理が成立してしまうみたいな。

 “集団の誤謬”という言葉がある。個人ではなく、組織や団体を個性を持った人間のように扱ってしまうという人間が非常に陥りやすい過ちを社会心理学者のオルポートが言い表したものらしい。ちょっと考えると我々の身の回りは“集団の誤謬”だらけである。“社会が少年を犯罪に走らせた”だの“開発部門はもっと業績にコミットするべきだ”などというセリフを良く聞くが、なんとなく分かった気にさせてくれるが、よく考えてみると何を言っているのか不明である。社会って誰?開発部門っていう人がいるわけではないでしょ。。。このような誤謬を犯しまくってしまうのは人間の性のようである。
〔中略〕
 この誤謬の一種に“リーダー個人崇拝”がある。ある組織に顔が分かるリーダーがいる場合、リーダー個人を組織全体に関する表現に代替してしまうし、そうしているうちにリーダー個人に人智を超えた超人的な能力を見てとる。だが、それは往々にして錯覚以外の何物でもない。

Monkey Gone To Heaven やっかいな誤謬いろいろ
  • 日本では「集団錯誤」と訳されるのが一般的なようですね


 これが漫画業界だと、出版社は雑誌ごとのカラーで企業イメージを分散できることなんだと思います。
 例えば小学館は作家との騒動で『サンデー』編集部のイメージダウンを起こしてから、名誉挽回に苦労させられているようなのですが、だからといって児童誌の『コロコロコミック』や少女誌の『ちゃお』にどうこう思う人は少ないでしょうし。


 その一方でアニメスタジオは、内側で動いているラインの違いとか、担当するプロデューサーの違いとかが可視化されにくいために「社名」で擬人化されるわけで、それって「陰謀論」と呼ばれる妄想を生みやすい考え方なんですよね。
 それならもういっそのこと、J.C.STAFFチームJとかチームCとかチーム研究生みたいにチーム分けした方が、「客にわかってもらえやすい」のかもしれないなあと、皮肉なことを思ったりしました。


 でもサンライズくらいの大きな会社だと、実際に社内でスタジオを複数に分けていることが知られているわけで、でもそれもあまり公に見せていないくらいですから、日本企業としてのアニメスタジオには、伝統的にチーム制というのは合わないものなのかな、と想像しています。


 あとこういう話をすると、アニメスタジオの分裂・独立の起こりやすさ……などもトピックになりそうですが、本題から外れてきたので今回はこのくらいで。