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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

「楽しみ方」の共有は受け手側だけが行うべきなのか?

 ちょっと与太話です。
 今のネットにおいて、アニメ番組の感想や考察のまとめなど、ソーシャルな情報交換には価値がある、と思われているようです。
 つまり、アニメ番組の二次的情報には高い需要と集客力がある。その価値が多くの人から認められている。


 だとすれば、もはやテレビアニメは公式に「番組の楽しみ方トーク番組」などを放送して、積極的にその価値を奪いにかかるべきではないか。
 「つまらないと思われているアニメの面白さに気付かせる」という干渉はわりと可能なことで、それは文字よりもトークの方が有効なところもありますから。


 ただまあそこに「お仕着せにならないライブ感」を与えるのは難しいし、「気付き」を与えようとしてハズしたらしょっぱい、というリスクはあるでしょうけど。
 スタッフ(送り手の代表)を出演させる*1よりも、単なるファン(受け手の代表)に語らせた方が目的に合うと思いますが、公式のメディアでどこまで「受け手目線の楽しみ方」の垂れ流しが許されるのか、というデリケートな問題もあります。


 今までアニメ番組にはラジオ番組のタイアップが付き物でした。
 でもほとんどが「本編の面白さに気付かせる」トークは放棄してますからね。パーソナリティの役割はそこにない、と考えられている。


 ちなみに「送り手が解説したら負け」という思想はあまり好きではなくて、むしろ『まどかマギカ』だって虚淵玄さんが毎週「解説者」になってあれだけ盛り上がった番組でしょう。
 虚淵さんのTwitterはアングルを誘導しすぎる観もあってヒドい、と思う面もあったものの参照すべき成果ではあったと思います。
 かなり早い時期から「声優やスタッフがTwitterで喋ると面白い」という効果にまず目を付けていたのは星海社太田克史さんでしたっけ。その頃はまだ「スタッフが作品の外で作品語りしちゃダメでしょう」みたいな空気が破られる前だったと思います。*2

この話のまとめ

 まぁ、まとめサイトの物量的な圧力に負ける前に、送り手側は対抗策を練るべきじゃないでしょうかという話です。


 「送り手が解説したら負け」という以前に、沈黙を守る美学を墨守しすぎると、「視聴者に解説してもらおうと期待して未完成品を世に出す情けなさ」が生じるようにもぼくは感じます。


 けして未完成品だと思って作ってはいなくても、「ネットで釣れればいいな」と期待して世に出すという行為は、そういう媚びや甘えを孕むものだと思うんですよね。
 もちろん、消費者の話題を完全にコントロールしようとするのは傲慢でしょうが、逆に受け手に振り回されることを良しとするのも、不甲斐ないことでしょうから。

*1:例えば『プリティーリズム・オーロラドリーム』のDVD発売記特番(→http://live.nicovideo.jp/gate/lv54724203)など。

*2:不評の多いアニメに関しては、やはりスタッフは発言を控えた方が無難な流れに今なっていますが。