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さやわかさんのコメント

さやわかさんのヱヴァ破評と、三国志 - ピアノ・ファイア

 史実、正史というメタファーをどう、アニメというメディアに当てはめるかという「置き換えの作法」がちょっと混乱してしまっているようなので、自分なりに定義してみます。


史実:物語のオオモト。正史の裏に隠れた「物語られる以前の事実」。フィクションにおいては定義しづらいので、あんまり持ち出さない方がいい概念かも。


正史:エヴァでいうなら、TV版エヴァ〜旧劇場版。イデオロギー的な目的で「あるべき姿」として作り出された、公式オリジナルを指す。


偽史正史、あるいは独自調査に基づいて作られた、非オリジナル作品。いわゆる二次創作。「あり得べき姿」の作品とも言える。


演義エヴァでいうなら、新劇場版。イデオロギー目的の「あるべき姿」ではなく、大衆に求められた「あるべき姿」に変化したもの。


 さやわかさんは、「あるべき姿」として新劇場版がRebuildされているという理由で「新劇場版=正史」と捉えておられるようですが(以下コメント引用)、

「序」でスタッフは王道の物語を「史実」として意識しながら「歴史」を語る、いわば「本来あるべ
エヴァの正史」を構築する姿勢を半ば見せていたはずで


……しかし、イデオロギー的・メッセージ的に語られた旧作の時点で「正史」は構築されていたとぼくは捉えている、というのが結論の差となってますね。
 この違いは、旧エヴァ「本来性を内包しない空虚な作品」「物語の“なりかけ”」とみなすか、「完成された物語」とみなすか、という認識の差に起因する違いなのだと思います。


 さて、ぼくはネットラジオでも何度か言っていたことですが、旧エヴァは傑作だと思ってる人なんですよね。
 かつて『トップをねらえ!』が「パロディをやっているうちにオリジナルに至ってしまった」奇跡を見せたように、旧エヴァもまたそれを達成していたと、――世間の評価は分かれる所でしょうが――まぁぼく自身は評価してるんですね。


 だから旧エヴァはもうあれで出来あがっていて、ある意味では「文句のつけようが無い」状態になっているわけです。
 しかし、その旧エヴァが「完成された物語」であることと、新劇場版が「旧エヴァの欠けた穴を埋めていること」「ヱヴァが旧エヴァに救いを与えていること」は同時に両立するはずです。


 ぼくはそういう見方で、「旧エヴァ=正史」、「ヱヴァ=演義」という認識をしています。
 きっとこの「演義」を元にして、ヱヴァ無双とかヱヴァ大戦とかが作られていくのが、これからのエヴァンゲリオンワールドなんでしょう……っていうか現時点でも半ばそんな感じですけどね。


 ただ、この場合問題となるのは、「新劇場版はまだ完結していない」(完結していないものを先走って讃えても仕方ない)という事実の方で、「旧エヴァ」と「序」と「破」と「Q」の関係性を語ろうとするなら、さやわかさんの「全ては焼き直しで、焼き直しを認めることに王道の根拠があるんだ」という論旨の方が則しているのかなーという気もします。

しかしそれは「史実」が実は虚ろなものであるというエヴァが当初に抱えた困難を半ば忘却しながら旧エヴァと(ロボット)アニメを参照した二次創作に近づいてしまう。しかし「破」は、王道の物語でも学園エヴァでも、語られるものがすべて「偽史」になることを免れ得ないという断念をより受け入れたように見えます。そこですべてのエヴァのヴァリエーションが横並びになってしまうということと、だからこそ王道の物語を語る根拠は浮かび上がってくるという意識を正確に織り込んだのが「破」なのではないかというふうに見ました。

 「破」によってようやくヱヴァは「TV版ヱヴァ」に追いつき、ロボットアニメの歴史にも追いつき、そしてこれから現れる「Q」が旧劇場版の完全なオルタナティブとなると同時に、「今の時代のロボットアニメ」として登場するというのは、間違い無いと思われます。

ただその代償として「破」はエヴァのすべての要素を食い尽くしてしまって、その後どうするかを「Q」に完全に丸投げしている。それはテレビシリーズが開始されたときまで条件を戻しているようでもある。ここが素晴らしい!すげえ映画だ!庵野どう収拾つけるつもりだ!と思いました。

 このあたりには、とても同意しますね。