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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

「お若いの! あんたが生まれた瞬間に歴史が始まったわけじゃないんだぜ」

 ブログ更新を再開する前に小話を。


 10年くらい前にネットで見かけたことがあって、もう誰が発言者だったのかも忘れたのに今も印象深く残っているのが「お若いの! あんたが生まれた瞬間に歴史が始まったわけじゃないんだぜ」みたいな意味の言葉だった。
 「10年くらい前にネットで…」という前置き自体が、ここ数年にネットを始めたばかりという人には「あんたがログインする前からネットは存在していたんだぜ」的な言いざまになりそうなもので(んで当然ぼくが始める前からネットの前身はあったはずで)、当時はニュースサイトもブログもアンテナも無く(巡回プログラムはあったはず)、アングラ感の溢れるテキストサイトが沢山あったのだ。今はログすら存在せず検索してもひっかからない(実際、何度も検索しようとして諦めたのだけど)、そんなサイトのひとつで読んだのかもしれない。


 まぁ今はネットの話ではなく、歴史の話をしたい。
 自分が歴史に興味を持つのは、自分の主体性というものをなるべく消してしまいたいからのような気もする。歴史を知るということは、日本人とは何か、人類とは何か、つまり「我々はどこから来たのか?」に気付いていくことに通じる。
 自分というものは自分からスタートしたものではなくて、過去の出来事の延長でしかない、という見方を身に付けていくのが歴史趣味の醍醐味だ。
 ぼくは自分で判断する、ということがどうも苦手なので、できるだけ「自分より大きなものの流れ」に巻き込まれた方が、自分の行動の是非を判断しやすいと考えるし、やることの責任を担保しやすい。だから歴史(文化史だろうが建築史だろうが美術史だろうが思想史だろうが文学史だろうが宗教史だろうがおかまいなし)に触れておきたくなるのだろうと思う。


 かといって歴史的なスケールでものを考えた上で、あたかも人類の総意を代弁するかのような気分で行動する人というのは、かえって主体性の強い人物であるかのように周囲からは映るだろうし、自分のやったことは(人類の総責任などではなく)結局自己責任になるのだろうけど。


 思えば、「述べて作らず」(私は過去の偉い人達の言葉を改めて述べているだけで、自分一人が考えたことはありませんよ、という意味)と言った孔子も、過去の教養を深く身に付けていたからこそ「この思想で政治をコントロールしてやろう」と志した挙げ句に東洋世界を席巻する儒教を残すまでに至ったのだろうし、『へうげもの』の千利休だって、「自然にあるものの美しさ」を知っていたからこそやはり政治をコントロールしてまでその美学を伝えたいという業(ごう)に支配されていたのだろう。
 だから利休は「目先の美しさ」に溺れる人を蔑むのだろうが、古田織部はまさに「目先の美しさ」に振り回されるタイプの人で、もとのセンスがいいだけに「惜しい人物」として利休から扱われるのだと思う。


 「お前が生まれた瞬間に歴史が始まったわけじゃないんだぜ」という言葉は、目先の出来事だけで自分の行動を決められる人間に向けられる言葉であって、ある意味「主体性がある」とか「自我が強い」という形容はそういう人にこそふさわしいのかもしれない。


 逆に、「行動力がある」とか「芯が通っている」などと世間から呼ばれる生き方は、孔子のように「過去の出来事」を強く意識して、背負い込んだ人にのみ生じるのかもしれない。「知識」ではなく「知恵」を持っている人というのは、そのようにして作られるのではないかな。
 勿論、その中には「歪められた歴史観」「狭い歴史観」に支配された人達も多いだろう。まぁだからこそ「歴史」には「真実」を追い求めるロマンが伴うはずだ。


 ぼくにとっての歴史と似たように、「自分の主体性を消してしまえる、もっと大きな“真実”」を追究したいという欲求は、科学オタクや生物オタクの人達も持っている気がする。実際、ぼくは歴史と同じ感覚で天文学や物理学や進化論や医学をかじることがある。学問としてはあんまり接点が無いようでも、追究していることは同じなんじゃないだろうか。
 理系人間にかぎらず、学問を究めていくと「自分なんかよりも宇宙とか自然とか人類の方が優先されるんだから」という、滅私・忘我タイプの人間が育っていくような気がしないでもない。
 しかしちょっと理系批判っぽくもなってしまうが、いきなり「宇宙」「原子」とかは一足飛びすぎるので、歴史はちょうど地に足をつけられるジャンルとして好ましいと思う(でもまぁ現代の政治や経済には頓着しないような場合、歴史だけにハマるというのも一足飛びには変わりない)。


 ちなみにこれ、学問の形を取ってはいるけど「宗教」の役割と変わらないんだろうね。
 宗教というものは、まさにこういう「生きる知恵」を求められるものではなかったか。そして実際、道教や仏教なんかは現在進行形でこうした「知恵と真実」を伝える役目を失っていない。学問というのは、宗教の後追いをしているだけですね。


 良く「自我の弱い人ほど宗教にハマる」と言うし、その一方で、信仰心の篤さは強い意志の代名詞になったりする。
 「自分は歴史の延長である」「自分は物理法則や生理現象に支配されている」などと考えて生きるということは、自分の主体性を投げ出し、過去の奴隷であることを認めるような態度に通じる。そういう生き方には善し悪しがある。善い生き方をするためには、だから「追究」の意志が必要になるわけだ。
 逆に「俺が生まれた瞬間に歴史が始まったのだ」「物理法則は俺が思った通りになるのだ」と言えるような人は、皮肉めいた意味で「主体性のある人」なのだろう。まーそんな態度で大儀を為せる人は天才なのだろうけども。