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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

悪いことをすると損をする

 Twitterに書いていた散文を、脳内人格の会話として書き直してメモ。
 しょっちゅう脳内でこうした議論が繰り広げられております。

「うーん同時多発的な現象なんだけど、あからさまに間違った考え方にかたくなになってる人の文章をネットで見かけるとヘコむ……。愚かさは罪ではないのだが、愚かな主張を行うのは罪というか害悪なんだよなあ」


「間違った考え方をしている人ほど“その間違いを指摘することの難しさ”を感じさせられるのはなぜなんでしょうね。まぁ基本的に指摘する側は全否定する立場にならざるをえないんですから、関係の取り方が難しいのも当然か。全否定が不快なのは正しさと無関係の感覚ですし、相手のためにも交渉は避けたくなります」


「交渉不能だから悪なのか、悪だから交渉不能になるのか」


「悪に対する善の暴力性の問題というか? ……でも“考え方を変えろ”というのは暴力なんですか? それを暴力だと否定するってことは、悪に対して何もしないって選択を生みますよね」


「“何もしない”はけっこう正しい選択肢で、外から間接的に淘汰圧をかけていくような処理が自然法則に則している……、という考え方が理想ではある。万物は利他的でないと存在を維持できないから、そもそも人に望まれないような“害悪”であるほどその維持も不利になっていくしかない。だから環境さえあれば、直接手をくださなくても時間が解決してくれる問題ではあったりする。時間が経っても止まらないなら、実は利他的な面もあったということだし」


「話が飛びますけど“世界を滅ぼす悪”や“悪の世界征服者”ってのは、“世界が自分を維持してくれなくなる時間になる前に世界をぶちこわす”のが勝利条件の存在なんでしょうね。借金できなくなるリミットが来る前に借金を踏み倒すレースにチャレンジしちゃう感覚というか? 交渉不能の排他的存在ってのは、その前提でしか成立しませんし」


「まぁ善悪を選定して淘汰圧をコントロールするのは神様の仕事なので、人間レベルでは困ることになるのは変わりない感じ。でも“誰にも維持されなくなるまで害悪として生きる”ためのレースっていうのは、けっこうみんな無自覚にやってる行為ではあるね。しかもリスクを考えずに」


「自分の主張や行動のひとつひとつも“言わせてもらっている”“やらせてもらってる”んであって、神様………世界から見逃してもらってるからどんなことも言う自由が維持できてるんだという自覚は重要で、“なんでも言うのは俺の勝手”って考えると世界と自分の天秤が釣り合わなくなります」


「好きなこと、自分がただスッキリしたいからって理由でやること……、“あいつが悪いから懲らしめよう”でもスッキリしたいという点では同じだけど……、ってのは必ず“楽しみ代”を支払った代わりにやれてることだから、トータルでは損に繋がるわけだ」


「すると、行動の自由とか権利ってのはレンタル制で課金されてるイメージが近いですね」


「“自由”がレンタル式で、“権利”が買い取り式なんじゃないかな。さっきの“世界を滅ぼす悪”の話も、レンタル制の自由が期限切れになるよりも早く“世界をぶちこわす権利”を買い叩くというレースなんだろうし」


「若いうちは、あんまり自分を大事にしようとしないから、そのレースで損してることはヒリヒリと肌で感じられても“スッキリしたい欲”の方に天秤が傾きやすいですね。楽しみ代を払って損するリスクを“潔さ”や“格好良さ”だと思いたがるのも若い頃」


「“リスクを承知する”ことと、リスクを考慮することは別だよね。自分が損するだけだから全て承知済み、あざ笑いたければ笑えばいい……、って気取るのは考慮になってない」


「本当は、自分が楽しみ代を払って損をするということは、まわり全体を損させるということの意味の方が強くて、それを“悪い”と実感できるかどうかが“生きるセンス”なのかなというのが、ここ数年で出ていた結論ですね。ぼくは損したがりな性格なので、そこんとこのセンスはあんまり無いという自覚もセットで」