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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

古典的とは 読書経験の集積から

 このエントリに掲載してあるのは、「古典主義(参考:Wikipedia)」という言葉を考える上で、ぼくの脳裏にある、先人達の言葉を集めたものです。
 こういうバラバラな「思い」を有機的に融合させていって、その意味を追究する……という行為自体が「古典的」というのではないかなとも思います。
 「追求」と「追究」の違いですね。古典を探し集めて、コレクションするだけなら「追求」止まりで、「その奥にもっと何かあるんじゃないか?」という意識を持つことを「追究」と呼ぶんじゃないかと。
 古典の知識に詳しければ偉い、っていう価値観はむしろ瑣末主義(トリビアイズム)の始まりでしょう。詳しくならなくてもいいから、何かを究めるつもりでやる、ということの方に価値観を置く。
 「様式主義」は古典主義と意味が近い言葉だと思いますが、「様式」という概念も誤解して捉えられていることが多くて、様式主義者というのは、既存の様式の形を模すればいいわけじゃないんですよね。それは「形骸化」でしかなくて。様式というものは、追究してもしきれない深さがあるからこそ、完成した「様式」足りえるわけでしょう。
 荒木飛呂彦例の講演で、「古典的な手法をツイキュウ*1する」という言い方をしてたみたいですね。
 荒木飛呂彦という現役の漫画家が、実は古典派の人である、と自分から表明したことは、現代のマンガ界にとって非常に重要なことだと認識しています。
 このことは評論家の間でも、重大な事柄として議論の対象になってもいいと思います。今の漫画評論っていうのは、ようやっと戦前〜現代までに至る「ストーリー漫画の史観」に見通しがつくようになった辺りで、(日本の絵巻物は視野に入っていても)それ以上に普遍的な、広い視野を得ていない状態でしょう。その割に、個々の漫画家自身は西洋美術からの影響を語る人が多かったりして。
 美術としての古典や、ドラマとしての古典、主義としての古典が、漫画にとってどういう役割を果たすのか、を考えることは、その視野を広げる上で大きなチャンスになってくれそうな気がしています。


 能書きが長くなりましたが、この日の日記の目的は「とにかく引用文を沢山貼り付ける」ことなので、単なる引用の洪水として見て頂ければ。
 なんでこんな記事を作ったのかの理由は、また日を改めて言及したいと思います。

中野雄『モーツァルト 天才の秘密』p74-75より

 いまクラシック音楽をアマチュアの愛好家が楽しもうと思ったら、市場にはどんな手段が用意されているか。コンサート、CD、DVD、TV、そして楽器と楽譜。加うるに、街に溢れる音楽教室とカルチャーセンター。そして音大を卒業した先生の大群。演奏される機会を待っている古典の遺産は数え切れないほどあるし、それらに取りかかるためにまず克服しなければならない練習曲の類いは、これまた何千曲あるのか見当もつかない。
 だが二〇〇年の昔、音楽の市場に、これらのうちいかほどのものがあっただろうか。
 音楽を耳にする機会は、数少ないコンサート会場か、友人のサロンでしか得られなかった。自分や家族の誰かが楽器を持ったり、歌を習ったりすることになったとして、さて、そのときどんな曲を弾き、どんな歌を唄ったらいいのか。とにかくそこにはモーツァルトソナタもなく、ショパンの練習曲集(エチュード)も存在しなかったのである。人びとは楽譜を求め、出版業者は「新曲を!」と血眼になっていた。
 現在、クラシックと言われる世界に留まっている限り、私達はまず、「現代作家の手になる新曲が欲しい」とは思わない。現代の作品に対する好き嫌いは別として、アマチュアの音楽愛好家にとっては、生涯かけても弾き尽くすことの出来ないほどの名曲の数と量があるからである。
 ところが二〇〇年、二五〇年前には、前述のように質の高い器楽(絶対音楽)のための作品は、需要に限りがあり、作品の質も低く、数量自体も少なかったのである。
 「新しい曲が欲しい」。ハイドンモーツァルトが対面した音楽市場は、音楽家に対し何よりもまず、〝創作者〟であることを要求していた。

同書p142-143より

 十九世紀ロマン派の時代には、〝原典尊重〟とか作曲者の〝創作意図〟とかいうものにはさしたる関心が払われなかった。大切なのは時代の美感と、個人の価値観である。先人の作品上演に当たって、奏者による譜面の改変や編曲は常識的行為であったと言っても過言ではない(例えば、ブラームスブゾーニの編曲したバッハの≪シャコンヌ≫など)。この流れは二〇世紀中葉まで続いて、人びとは楽曲と同等、ないしはそれ以上に演奏家の個性を尊重した。そして、そんな雰囲気の中から、フルトヴェングラートスカニーニをはじめ、ホロヴィッツクライスラーなど、演奏界に巨匠が次々と登場した。二〇世紀の前半は、演奏芸術が頂点を迎えた時期と言っていい。
 これに対して、世紀の中葉から「大切なのは作曲家の創作意図であり、演奏家はそれを聴き手に伝える〝使徒〟であるべきだ」という演奏哲学が広く唱えられ、「楽譜に忠実に」が合言葉となる。抑制の利いた、端正な演奏が持て囃される時代が到来した。N響の桂冠指揮者・サヴァリッシュなどはその典型であろう。
 「楽譜に忠実に」という演奏哲学がエスカレートすれば、「作曲家存命時代の楽器と奏法に忠実に」という思想が現れるのは、当然の趨勢と言っていい。「モーツァルトの作品は、モーツァルト時代の楽器で演奏するのが、彼の作曲意図を理解し、再現する最善の方法」と、この派の人々は言う。その頃の楽器を使うのは大変だから、現代の製作者がそれらしく復元(コピー)したものを使う。「音が地味で、響きが乏しい」と言うと、彼等は、「お前達の楽器や奏法にはロマン派の手垢がついている」と反論する。現代派の方は、「聴き手が現代人なのだ。現代人の美感に訴える演奏を志すべきだ」と応ずる。美意識に関わる問題であるから正邪の決着はつかない。勝敗を決するのは歳月と、聴き手の感性である。

  • この著者はクラシック音楽プロデューサーなので、その視点からの意見。
  • 「決着はつかない」とのことだが、原典派と現代派はそもそも求めるものが異なる筈なので比べること自体ができない。原典派が求めることは「古朴の味わい」を現代に召還せしめることによって人間原理に近付こうとすることであって、現代派が求めるものは「人類の進化」に合わせて音楽の方も進化させてしまおうということだろう。
  • 人類の社会は一方通行に進化し続けてしまうものだから、それに対応させる為に現代派は不可欠だし、かといって、「古朴」を失ってしまえば、クラシックの存在価値を喪失させることにも等しい。
  • ちなみに、ここでいずみのが使っている「古朴の味わい」という言葉は、以下の記事に由来している。

http://futunoya.cocolog-nifty.com/kosendou/2005/10/post_ed3d.html

「古いもの」には一見して「古朴」ともいうべき味わいがある。


埴輪などがそうであるし、シーラカンスなどは如何にも「古朴」の感がある。


日本では飛鳥仏あたりまでが、埴輪の味わいを残している。文学では『万葉集』の歌の中にそれを見ることができる。


書でいえば隷書やテン書が「古朴」の味を伝えている。後代、隷、テンを書く試みはなされているが、やはり「古朴」の味を出すには至っていない。


おそらく意識状態がどうしようもない程に乖離してしまっているのであろう。


この「古朴」の味わいとは、「未分化」から生まれて来るものである。あらゆるものが「目的化」する以前のもの。それが「古朴」の味なのである。

  • こちらでの「古朴」は、クラシック音楽よりも更に古さを感じさせる段階のものを指した言葉になっている。
  • 「目的化」とは、進化のことでもある。進化とは、エントロピーの増大である。古いものを味わうということは、そのエントロピーの増大を防ぐ為に行われる。
  • この記事の筆者は中国武術の先生であるが、武術的な視点から言及している「虚心と滋味」、「形、功、法」というコラムも参考になる。
  • 原典派のクラシックにも「滋味」が蔵されていると思われるし、「形」の変化を模索しているのが現代派のクラシックだとも言える。

ゲーテ『格言と反省』より

音楽は最もよい意味で、比較的新奇を必要としない。否、むしろ、音楽は古ければ古いほど、人々がそれに慣れていればいるほど、効果的である。


   *


古典的なものは健康であり、ロマン的なものは病的である。

  • ゲーテの時代の音楽は、楽器の種類が限られていたことを加味して読み取った方がいい格言かもしれない。例えばピアノの出せる音のパリエーションは有限なので「新奇を必要としない」のはもっともな話どころか、必然であるとも言える。
  • そこに電子音楽などが登場して音のバリエーションが広がってしまうと、一時的に「新奇」が効果を持つ時代に突入する。ただ、勿論「新奇」の行きつく果ては「奇形」でしかなく、どこかで古典を求める必要がある。

色川武大うらおもて人生録』p222より

 ええと、あのねえ、こういうことがあるんだ。物事というものは、進歩、変革、そういうことが原因して、破滅に達するんだ。

同書p227-228より

 ストリップというやつがあるね。はじめ日本では〝額縁ショー〟とかいって、裸の女の子が有名な絵画に似せたポーズで、三分間立ってるだけだった。それでも人々はびっくりして昂奮して大入り満員だったね。でも、同じことやっているとすぐに飽きるからね。もうすこし刺激のつよいものを見たくなる。
 それで見せるがわも、いろいろ考えて工夫するからね。一枚ずつ衣装を脱いでいくストリップティーズとか、大きな扇を二枚持って股間をかくして踊るファンダンスとか、アクロバティックにしたり、生きた蛇をからませてグロテスクにしたり、つまり進歩発達していったわけだね。
 それでどこかで止まればいいけれども、どんな刺激だってくりかえしていればなれるから、次から次へと新工夫をしなければならない。そのうち容易なことでは見る方が満足しなくなってくるから、刺激の自転車操業みたいになっちゃうんだな。
 ついには現在のように、ショーの限界をこえて、天狗ショーとか、生板ショーとか、行きつくところまで行ってしまう。それでもうこれ以上やることがなくなってしまって、終わりだ。
 これは前回に記した進歩発達が原因して、滅びに至る図式だね。
 ストリップの例は、典型的なワンサイクルで終わってしまう例なんだね。

同書p230-232より

 この頃、アメリカ映画なんかでも、〝なつかしの一九三〇年代〟なんていってるでしょう。
 これがストリップのように、ただ突っ走ってワンサイクルで滅んでしまうのにくらべて、永持ちしている原因なんだね。それでも永久には続かない。向上している以上は、蛇行しながらも滅亡には近づいているんだけどね。
 もっとわかりやすく、簡単な例をあげようか。
 生物のありかた。人間でもいいけれどもね。生命というものがリレー競争になってるでしょう。一個の生命ならば、たかだか七十年ぐらいで終わってしまう。一生懸命に向上しながら生きていって、そうして滅んでしまう。
 ところが、その途中で新しい生命をつくってバトンタッチするね。新しい生命は、また素朴な原点に近いところから、赤ン坊としてスタートするわけだ。
 だけれども、原点といっても、前代や前々代の赤ン坊とは、まったく同じ地点じゃないんだ。文化も発達しているし、生活の仕くみもちがってる。平均七十年ずつかけて向上してきたものの反映があるからね。
 だから長い眼で見ると、いつもスタート地点に逆戻りしているようだけれど、全体として少しずつ進歩発展しているわけだね。またそのぶんだけ、滅亡に近づいてもいるわけだ。


   〈中略〉


 とにかく、ワンサイクルで終わったんでは駄目なんだな。物事というものは自然のエネルギーにまかせると、あっというまに終わってしまうものなんだ。そこをなんとか、だましだまし、ひきのばしていかなきゃならない。
 人間なんて、もう衰退期に入っている生き物だから、進歩だけを考えたらあッというまに破滅だよ。

色川武大私の旧約聖書』p122より

 イェホバ氏、並びに預言者たちは、ことあるごとに、律法の昔に戻れ、といっております。まったくそれはそのとおりなのでしょう。けれどもその訓戒は、人間どもの頭に強く焼きつかないのは、神の言葉が本当に説得力を持っていないからです。
 律法の昔に戻れ、ということは、とりもなおさず、完全な反復をくりかえせ、ということです。けれども、それでは、いつか幸せを与える、という自分の言葉に矛盾してしまうのです。
 もし、持続だけを狙って、愚かしい反復をくりかえしている気なら、イェホバさんなど不要なのです。植物が神を必要としておりますか。
 人間どもは、持続と進化と、両方狙っているのです。傲慢な望みですが、望みというものは大体において傲慢な性質のものでしょう。そうして、帰するところは、それなりに燃えつつ、死んでいくのです。
 ただ反復をくりかえす種類の愚かさではなくて、もうすこしよく生きたいと望む種類の愚かしさ(これも当然の欲求ですが)の部分に関わってくるのがイェホバ氏なのですね。

  • 人間はその生来的な性質として、放っておくと野放図に「進化」を期待するように出来ている。この性質は変えようが無い。
  • 自然の本質は「反復」だが、人間の本質は「進化」である、という原則は以下の中国古典でも示されている。

老子』第七十七章より

天の道は、余り有るを損じて足らざるを補う。人の道は則ち然らず。足らざるを損じて以て余り有るに奉ず。

  • ここでは、単純に「天の道は正しい、人の道は間違っている」と説いているのではない。
  • 「人の道は人の道で、こういうものだ」という原則的な事実を指摘した上で、個人がどう適切に対処するべきかを問うているのだと思う。

*1:口頭の書き起こしなので、意味的には「追求」ではなく「追究」だと思いますが