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『映画ドラえもん のび太の恐竜2006』

izumino2006-03-06

 というわけで観てきました映画ドラ。
 個人的には「可」もあるし「不可」もある映画化……ではあるんですけど、それは原作に忠実なものを求めている所為なんであげつらうのもヤボであって、リメイク版にはスタッフによる新たな解釈を付加するべきだと思いますし、映画的な欠陥は特に無かったとも言えるでしょう。
 一緒に観にいった見習い雑兵さんなんかは「原作の内容きれいさっぱり忘れてたから普通に感動しました」とか言ってたし。へぇ、そりゃ良かったね……(あたたかい目のつもり)。


 さてまぁ、「児童まんがのおもしろさ」の基本である「面白い顔をしたキャラが変な顔になる」という技をカツカツ当ててお子様を喜ばせつつ、中盤以降はバキバキ絵を動かしまくるスペクタクルに突入。
 んで最後のピー助との離別のシーンを、かなりドロッとした、執拗な心理描写を施して熱を盛り上げて終わりという。
 ぼくは新ドラが始まった頃から、のび太役の大原めぐみの声には「ああ、これはシリアスなエピソード(大長編)を想定したキャスティングなんだろうな」と確信してましたが、そのシリアス寄りの資質が、映画版のドロッとした描写にガッチリハマっていて見事でしたね。ここだけは「リメイクされて良かった」と言えるシーンだったと思います。泣けました(そこに至る過程で、ちょっとした整合性無視がありましたが、まぁそれはドラマ重視の演出と考えれば)。


 あとこれは微妙な問題だと思うんですが、作画上の「鉛筆のタッチ」をできるだけ残すような、意図的に主線をクリンナップしないスタイルを採るのは、利も不利もあると思います。
 アニメーター側の「ラフで自然なタッチを残したい」という気概は感じるんですが、アニメファン以外からすれば「柔らかい味のある線」と好意的に受け取るか、「手抜きの汚い線」とマイナスに取るかは五分五分といった所でしょう。
 それに、鉛筆のタッチを残すということは「これは絵です」と口で言っているようなもので、「自然なタッチを活かす」どころか、余計な「つくりもの感」を子供に与えているだけのような気もします(特撮番組でピアノ線を見せるようなもの。まぁ「つくりもの」であることに気付いた子供がキャッキャと喜ぶ風景も想像できますから、それはそれで健全なのかもしれませんけど)。
 少し、アニメーターの芸術家意識を優先してしまっている(過信している)ような印象を受けなくもなかったですね。絵に関心のある人間ならばクリンナップされる前のタッチにも魅力を感じやすいでしょうが、一般人がどう思うかは人それぞれなわけで。まぁどうしてもダメだ、って悪く言う人は少ないと思いますが(毎年このスタイルでいくなら慣れるでしょう)。

 あと、藤子・F・不二雄の絵柄は「主線が完全に閉じている」というのも魅力のひとつなので、「主線を閉じさせない」ことに不満を感じる原作ファンも多いかもしれませんね(新ドラが「原作の絵柄に近づけてリメイクする」というコンセプトを謳っているなら尚更)。けど、まぁそこまで行くと好みの問題ですね。


 ……で、ここまで言っておいてから、最後に一応「不可」の部分をひとつ述べておきます(以下ネタバレ。かなり批判的かもなので御注意)。



 1980年公開の劇場一作目に関しては内容を良く覚えてないので、あくまで2006年のリメイク版と原作コミックスとの比較で書きます。
 原作原理主義的に言って最も納得いかなかったのは、ジャイアンのび太と一緒に日本まで歩く宣言をするシーンです。ジャイアンがそう決意した理由付けとして「おれの手をはなさなかったから」を挙げていますが、その動機部分の描き込みが弱い上に、ジャイアンがその弱い動機を口にする場面に演出上の比重を傾けてしまったものですから、二重の薄っぺらさがジャイアンに与えられています。


 原作ではタケコプターを失って落下した(死の危険をストレートに意識した言動を取る)ジャイアンが、のび太に手をはなさないでくれるように「泣いて懇願する」までの流れが割とじっくり描かれるのですが(物語導入部で「いじめっ子」だったジャイアンが「弱者」に変貌する場面であるし、それでなくても、自分の無力さに悔し泣きするのび太人間性ジャイアンが注目する重要な機会にもなっている)、リメイク版では動画的スペクタクルの陰に心理描写はほとんど埋もれてしまっており、ジャイアンタケコプターも失っていないので、特別なシーンとして印象に残るかというとそうではありません。
 確かに予備の無い筈のタケコプターをここで失わせたら、その後の会話で少し不自然な部分が生じる(タケコプターが一個足りないのにタケコプターで旅を続けるつもりで会話している)ことに配慮しての変更なのでしょうが、ここは原作通りタケコプターを失わせて、その後の会話部分を微調整すれば済んだ話だと思います。
 第一、リメイク版ではスペクタクル感を継続させる為に「ここで手をはなしたら仲間が死ぬ」程度のジェットコースター演出はしょっちゅう(のび太ジャイアンの間に限らず)行われていて、ジャイアンの危機もそういったジェットコースターの数々と大して区別がつきません。


 更に、その次の描かれ方こそがジャイアンのキャラクター性を薄くしていると言えますが、リメイク版では「のび太が○○してくれたから協力する」と、ジャイアン自身が理由付けをする部分に演出の比重がかかりすぎています。まるで大義名分を振りかざすような、力強い口調に変化しており、しかもその理屈をスネ夫に押し付けさえします(のび太に恩を感じているのはジャイアンであって、スネ夫は関係無いのでは……?)。
 原作では、「おれの手をはなさなかったもんな」という台詞は、感激したのび太ジャイアンに感謝した時に、ほんの付け足しの感じで、それこそ照れ隠し程度にしか発せられないんですね。だからこそジャイアンの決意に「言外の凄み」や「恩の貸し借りに留まらない自己犠牲性」が与えられる。
 リメイク版でジャイアンスネ夫に説教する辺りなんかは、しずかちゃんあたりに役を交替してもらって、ジャイアン自身は多弁になるべきでなかったと思います。あれじゃエセヒューマニストにしか見えませんよ(言ってることは真っ当でも、自分の正義を身内に押し付けたがる「いつものガキ大将」と大差無い)。


 でもまぁ、一度ジャイアンをこういったヒューマニストという解釈で押し通したということは、来年からのシリーズも、こういう「分かりやすい善人」として描くつもりかもしれないな、という推測もできて複雑な気分になりますね。ここが一番、観ていて落胆した部分でした。最初にも書いたように、ただ映画として観るなら重大な欠陥でもないのですが、一人のドラファンとしては……。