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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

現状の「映画論」と「マンガ論」の間

 再び鷲谷花さんのブログから。

一昔前、《マンガ》は《映画》の劣化コピーとして扱われることもしばしばでしたが、逆に現在になると、《映画》と比較した場合の《マンガ》のユニークさを肯定する試みが増えてきています。しかし、その際に、「《映画》にはこれができない。《マンガ》にはこれができる」という言い方が用いられることで、《マンガ》のもつ複雑さ、多様性、流動性に対し、《映画》がかなり単純かつ静態的なイメージのうちに限定されて語られてしまう傾向があるようです。

 この問題提議を聞いて、自戒の念を改めると共に、まず連想したのが『BSマンガ夜話』の手塚治虫特集「メトロポリス」の回における、映画監督・大林宣彦の発言でした。


 『メトロポリス』において手塚治虫が、映画の「パン」に相当する演出技法(横長のロケーションを間白で半分に区切り、左右のコマ内の空間に時間差を作り出す手法)を開発していたことを巡っての議論が、大林宣彦いしかわじゅん夏目房之介との間で行われていたのですが、それこそ「漫画のコマ割りを、映画の演出の劣化コピーとみなすことを不当だと論じる」いしかわ/夏目の漫画論者陣に対して、「映画が漫画と比較して単純視されることを不当だとする」のが大林監督の立場でした。


 どういう議論だったのかを言葉で説明するのは難しいので、ちょっと図を使って解説してみます(多分にぼくの私見や拡大解釈が入った図であることは断っておきますが)。



 ここでぼくが考える「何か同じもの」というのは、つまり「作者が表現したい何か」であって、映画/漫画それぞれに独自の方法論が存在するということなのだと思います。
 元々映画自体が「写真とフィルム」が発達進化して生まれたものであって、それ独自の歴史を持つのと同様に、漫画も「絵と紙」から発達してきたという独自の歴史を持っていると思います。

 両者は親子の関係として見るのでもなく、また、次元の異なる存在として分かつでもなく、歳の離れた兄弟のような関係として捉えるのが、互いにとって好ましいのだろう、というのが一応のぼくのスタンスです。

  • 余談

 大林監督の言葉を借りて「漫画のパンは映画のパンと同じことをやっている」と言っても良いのなら、


「漫画の切り返しは、映画の回り込みと同じことをやっている」


と言ってしまってもいいんじゃないかという気もしています(まだ思い付きレベルですけど)。
 映画において、イマジナリーラインをカットバックでまたぐことが禁じられている場合、カットを切り替えずに、カメラごと視点を回り込ませることでまたごうとする筈です。
 それと同様に、漫画は「同じページにコマを二つ並べる」ことでイマジナリーラインをまたごうとしているのではないでしょうか? 例えば、1ページの中で「切り返しを四連続行う」描写をした場合、巧みに表現すれば「カメラが二回転回り込みした」のと似たような演出効果が狙えるかもしれません。
 やや乱暴な対比ではありますが、映画と漫画を同レベルに論じる試みの一つとして、こういうアプローチも使えるのではないかと……。


 ちなみに秋田孝宏「コマ」から「フィルム」へ』は興味がありつつも未読だったので、Amazonで注文しておきました。↑と似たようなことは、既に書かれているのかもしれませんね。

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秋田 孝宏

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