最近考えていることは
「感情のストレッチやハードワークとしてのフィクション体験」というテーマの言語化についてです。
フィクション体験というのは、漫画やテレビなどの娯楽全般に触れることを指してもいいし、オタクの脳内恋愛を指してもいいでしょう。
「なんで漫画読んでるの?」っていう問いに対して、自分なりに一定の答えを用意できるようにしたいし、漫然とただ「通過するだけ」の娯楽消費ではなく、実として身体に残る「娯楽の感じ方」を提示したい、という目的もあります。
そういう「感じ」は2004年の年末あたりから意識しだしたことで、それ以前のぼくは「何故フィクションを体験して感動するのか、また、感動すること自体が自分にとってどういう意味があるのか」ということを良く理解していませんでした。感動はするけども、感動だけが空回りして、何も身体の中に残らないような虚無感が大きかったんです。その感覚が解るでしょうか。
別に「単なる暇潰し」でも「純粋に面白いから面白いんだ」と割り切るのも一つの手だとは思うのですが、それだけじゃあ、と思うのです。