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岩明均『ヒストリエ』評

 すぐ更新できるネタが無いので、mixiに書いた『ヒストリエ』評と、それについたコメント欄を転載します。
 コメント欄で白状してますが、ぼくは岩明均の他の作品をちゃんと読んでませんし、西洋史にも疎いのでそこらへんはご了承の程を。*1

ヒストリエ3巻読了

 「絵的な情報量の少なさが与える面白さ」というお題で評論を一席ぶちたいが、清書してられる余裕が無い(笑)。
 なので以下抄記。


 『ヒストリエ』という漫画作品は、感化的内包()を伴わない絵のみで画面を構成することで、古代の「情報的価値観」を再現することに成功している。
 ヒストリエは確かに「面白い」わけだが、「絵が簡素だから」→「ストーリーの面白さで保っている」という質の作品ではない。むしろこの漫画にとってストーリーは「面白さの中心」ではない、と言ってもいいだろう。

感化的内包とは

)例えば「泥棒」という言葉は、それが指し示す実体以上の情報を読者(聞き手)に与える。「泥棒」と「窃盗の容疑者」は指し示すものは同一でも、その言葉から連想するイメージは大きく異なる。「コソ泥」「盗っ人」という言葉を選んだ場合、更に余剰の意味が重ねられていく。
 これが感化的内包である。「おふくろさん」と呼ぶことと「母親」と呼ぶことの違い、「ブサイク」と呼ぶことと「その地方において若い異性から比較的好まれない容貌」と呼ぶことの違い、など。

 ヒストリエの場合、主線がシンプルであるだけでなく、「感情を表す漫符」は汗や顔の影といった最低限のものに抑えられ、表情のディフォルメは単調で、漫画的に誇張されたボディランゲージの使用も少なく、背景効果(ベタフラ、イナズマなど)も極限まで切り詰めることで「感化的でない」少情報量の画面を作り出している。
 人物、建築物、風景、小道具はおろか、コマやフキダシの構図に至るまで、ありとあらゆる絵から「感化的内包」が慎重にこそぎ落とされて描かれていることに注意されたし(例外は、エウメネスの夢の中に出てくる母の面影くらいであろうか)。


 高度情報化社会を生きる現代人にとっては、目に映る古代ギリシア世界の「情報量の少なさ」を読み取り、当時の情報的価値観を疑似体験することが、それだけで快感となるのだ。だから読んでいて飽きないのだ。
 誇張した喩えをすれば、平均的なサラリーマンやネットサーファーが一日に読む文字量が、古代世界の平民が読む文章の一生分に相当するかもしれないというくらいに、現代と古代では接する情報量が異なる。
 主人公であるエウメネスは当時における最高レベルの知識人として描かれていくわけだが、ヘタをすると、普通の学生の方が「エウメネスよりも沢山の言葉に触れている」かもしれない。


 そこまで「世界」が違ってくると、知識の捉え方、学び方、考え方、感じ方、用い方、あまねく全てが新鮮な体験に変貌する。
 そんな世界で流れる「情報」は現代とは全く異なる「価値」を持って受け入れられるだろう。今ではなんでもない、簡単な地理や理数系の知識が、当時の人間にとっては一生の何割かを占めかねない「貴重な情報」として語られていく。「無学」と「博識」という言葉の間にあるものは、今よりももっと切迫した意味を持ってくる。
 「知識」は貴重品であり、それを学ぶということは、特権であるか僥倖であったのだ。


 この、古代にひととき転生するような疑似体験から生ずる快感は、「絵が生む魅力」であり、厳密には、ストーリーの魅力ではない。
 これは小説で言えば、ストーリーではなく「文体の魅力」に近い。


 という話。

コメント;A氏

 『寄生獣』とか『七夕の国』でも大概「そぎ落とした」観があったけど、『ヒストリエ』と相対するとやっぱりあちらは現代が舞台だったんだなあという感じがしますね。

コメント;B氏

 うん、そうですよね。絵のストイックな表現が作品の大きな魅力になってると思います。作品の舞台となっている時代と、我々の時代との情報格差に萌えるのも大いに同意。
 後、技術的なことに起因する作品の魅力なら、語りの魅力ですかね。主人公の半生の様々な場面が、統一された語りで往来するのを見るのは、読んでいてわくわくします。


 ただ、この時代(古代ギリシア)の知識人の、知的なレベルの高さは、我々の時代の知識人以上かもしれない。数学にしても哲学にしても。
 ということで、個人的に感じているこの作品の本質的なおもしろさは、「知性」や「知的好奇心」が作品の舞台となっている時代と現代の我々との間で地続きになっていることを、主人公のエウメネスを通して体感することにあります。


 ええと、いずみのさんが、「一席ぶってくれる」のを楽しみにしたいんですが、駄目?(笑)

コメント;いずみの

 実は寄生獣も七夕の国も途中までしか読んでないし、古代ギリシアにも全然詳しくないのがネックなんですが(笑)。
 作者は昔からこの漫画の構想を温めていたらしいから、半ば必然的な絵柄の選択だったかもしれません。


>主人公の半生の様々な場面が、統一された語りで往来するのを見るのは、読んでいてわくわくします。

 この、エウメネスの情報をゆっくり小出しにされて、頭の中で繋ぎ合わせていく感覚自体が、「当時の知的体験のシンプルさ」に相当するという、作品→読者の二重構造になってますね。


>この時代(古代ギリシア)の知識人の、知的なレベルの高さは、我々の時代の知識人以上かもしれない

 ノイズ的な情報(今だとテレビとか街中の広告とか、友達との電話とか)が無い分、当時の知識は純粋に感じられるんですよね。 純粋だからこそ、それを正しく用いる人は「賢い」人に見えるという。
 うーんでもどうだろう、現代で、十代の若者が無意識に吸収している言葉のカタマリに受験勉強の情報量をプラスすると、やっぱり当時の知識人の読書量を超えてしまいそうな気もする。


 そこで面白いのは、人や人工物が持つ「意味」が排除されて描かれているのはともかく、「自然の豊かさ」まで排している点で、これは西洋的だなーと思います。戯画化された西洋観ですが。
 同じ知識レベルの舞台でも、アジアとかだったら自然を精細に描こうとする筈。
 西洋的価値観では「言葉」や「理性」からものを学ぼうとするけど、東洋的価値観では「自然」や「感覚」の中からも多大な情報を受け取ろうとする、ということですね。


 しかしこの漫画、アニメ版ハイジとか、フランダースの犬並に、世界規模で通用することを描いてそうな気もしますね。

コメント;A氏

>アジアとかだったら自然を精細に描こうとする筈。

 たぶんビンゴ。
 これの前に描いてる歴史作品『雪の峠』は日本のお侍さん達の地政学的な駆け引きがテーマで、自然風景(森、山、峠、雪)が絵的に重要な意味を持って描かれてました。

ヒストリエ (1) ヒストリエ (2) ヒストリエ (3)


 ちなみに、ぼくがここで使ってる「情報量」という言葉は、例によって赤松健用語の拡大解釈だったりします。
 元の意味はこんな感じ。


例えば、ジャンプの矢吹健太朗さん(Black-Cat)の絵は、前作に比べて
大幅に画面情報量が増えています。急にギッチり描き込まれ始めた、と
いうわけではなく、絵的な意味で「コストが高くなっている」のです。
トーンや線の多さではありません。画面情報が正確で多くなったという
意味なのですが・・・分かりにくいですね。スミマセン。(^^;)
逆に、岸本斉史さん(NARUTO)の絵は、かなりコストが下がっています。
ネームの流れ&アングルが売りなのと、もう読者が愛着を持つキャラが
多数いるので、画面情報量を上げる必要はないとも言えます。(それでも
初期は結構コストが高かった)

 赤松さん自身は凄く感覚的な説明をしてますが、要するに、絵に「感化的内包」が込められているかどうか、という問題だとぼくは捉えています。
 例えば、キャラクターの服装のレース模様なんかをビッチリ綺麗に描き込むと、そのキャラは作品中で特別待遇を受けているような印象を与えますし(記号的に「豪華な服」ということを説明するだけでは無く、「とっても可愛らしい服」という反応を刺激する感化作用がある)、あるいは、キャラのペン入れにグッと力を入れて乱暴に重ね描きするだけでも、読者が感じる「情報量」は増えていくでしょう。
 『ヒストリエ』は意図的にそれを無くしているのが面白い、と。しかもその「読者が得る情報量の少なさ」は「当時の人々が日常的に感じていたであろう情報量の少なさ」を連想させるものなんですね。

*1:追記:この後、岩明作品は後追いで読み、古代ギリシアについてはそれなりに勉強している