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『特捜戦隊デカレンジャー』最終話「デカレンジャー・フォーエバー」

 うーん、素晴らしいシリーズでした。
 何が凄いって、これ、戦隊シリーズの「お約束ごと」を破った上で、しかしその上で非常に魅力的な「戦隊もの」を実現しちゃったっていうことなんですが。
 今までの戦隊シリーズといえば伝統芸能的な世界であって、ある一定のお約束ごとを守りながら、その年その年ごとの微妙なアレンジを加えることでカラーの差を出していく面白さがありました。要するに、王道的なパターン(ハードウェア)がしっかりとあって、その上に物語(ソフトウェア)を載っけるタイプの番組シリーズだったと言えると思います。
 「枯れた技術の結晶」とも言える王道パターンがあるからこそ、子供達に安心して観せられるし、特撮ファンが愛せるものになっていた筈です。


 しかし、デカレンのプレ最終話と最終話を観てしまえば気付かされるのは、デカレンジャーがその王道パターン自体を壊して別のものに作り替えているということ。つまり「単独のラスボスとの長い対立を繰り返し、最後にその肥大化した因縁に決着を付ける」のが従来のお約束だったのに対して、デカレンの場合のラスボス(エージェント・アブレラ)は全話を通して殆ど舞台裏に隠れており、その因縁は主役達の気付けないレベルで積み重ねられていくという違いが見えてきます(途中になってようやく、実はあの事件やあの事件の黒幕はみんなアブレラだったのだ〜と気付かせて、終盤で唐突にラスボス化させる描き方)。
 この王道パターンを無視してしまうと当然、クライマックスにおける「肥大化した因縁に決着を付ける」ことによるカタルシスが弱いものになってしまいます。因縁の積み重ねが断然少ないわけですからね。


 じゃあ『特捜戦隊デカレンジャー』が戦隊ものじゃないのかと言えば決してそんなことは無いと。「長い対立の因縁の決着」というカタルシスを犠牲にして描かれていたのは、シチュエーション・コメディ的な一話完結形式のヒューマンドラマを丹念に繰り返すことによって、「戦隊の各メンバーの人格を従来の何倍も深く掘り下げること」と「メンバー同士の関係性を幾度も積み重ねること」だったのですが、これは従来の王道パターンを大胆に捨てることで初めて可能になったドラマ手法だったわけです。
 これは「王道」のパターンではなく、「覇道」のパターンなのだと大袈裟に言ってもいいでしょう。


 そうすることによって「メンバー同士の絆」を従来のパターンよりも遙かに強くクローズアップすることが可能になるのですが、「戦隊もの」というジャンルにとって、この「メンバー同士の絆」というテーマは「因縁の決着」というテーマよりも、実はもっと「戦隊もの」の核心を突いた「隠れた本質」だったんじゃないか? とぼくは思うわけです。
 それは現に、バン、ホージー、セン、ジャスミンウメコ、テツ、ボス、スワンの8人それぞれが個性と力を合わせて協力し問題を解決し、その結びつきの強さを見せつける「だけ」でも熱いカタルシスを生んでしまう、という最終回を観てしまえば何も言う必要は無いんじゃないかと思うくらいなんですが。言い方を変えれば、デカレンのラスボスって別にアブレラじゃなくても良かったんですよ。デカレンが描いていたのは、正義と悪の因縁の対決ではなくて、正義を信じる主役達の姿だったのだから。そしてそれは、まごうことなき「戦隊もののテーマ」だったのだと思います。


 繰り返しになりますが、この「戦隊ものの隠れた本質」は一度王道パターンを捨てることで描けるものでした。
 もしデカレンに旧態依然の「幹部空間」(ラスボスのアジトのこと)が存在していて、クライマックスに戦隊達が幹部空間に突入、ラストバトル……などという王道パターンをなぞるものであったならば、このテーマは絶対に描けなかったことでしょう。
 従来のものを壊して、新しい答えを産むという偉業をデカレンジャーは果たしてしまった。だからこうしてデカレン戦隊シリーズの中の一番組として捉えてみると、「ああ、デカレン戦隊シリーズの歴史を一度終わらせてしまったのだなぁ」と感慨深い気持ちになります。


 おそらく、新シリーズである『魔法戦隊マジレンジャー』は王道パターンに戻るシリーズになると思います。かといってそれがデカレンよりも戦隊ものとして劣るということは全然なくて、いつの時代でも面白いものを作れる可能性があるからこそ、王道は王道たりえるわけです。やはりデカレンは「王道を外してしまっていたが故のとっつきにくさ」みたいな所が子供にとってはあったような気もしますから。
 でも逆に、そこまで完成された王道を壊すことのできたデカレンは本当に凄いんだ、とも言えるでしょう。このような名作に辿り着くことができて、戦隊シリーズは幸福なのではないかと思います。

  • 余談

 殉職者を一人も出さなかったという所からでも、スタッフのキャラクターに対する愛情を裏読みすることができて良かったですね。
 キャラクターを「殺せない」というのは、ある種制作者側のエゴでもあるんだけど、ここまでのものを作った結果の答えが「殺さない」なら受け入れられるというものです。