赤松健『魔法先生ネギま!』の読み方(2時間目)
漫画の話は意外と需要があったようなので*1、続けてみます。
前回、「ネギま」を読むことは作家・赤松健を読むことに他ならないということから話を始めましたが、今回は更に「漫画家としての赤松健の性格を把握する」ことに移ろうと思います。
赤松さん*2の性格を把握する上で、重要なキーワードはなんでしょうか。
それは良く本人が各種媒体(例えば『季刊エス』のインタビューなど)で主張していることなのですが、「自分でこれが描きたいという欲求はあまりなくて、より多くの読者が楽しめるものを描きたい」という主旨の言葉に集約できると思います。
こういった主張を踏まえてみると、例えば昨日引用した
今こそ、やりたいものをやり、描きたいものを描くべき。
という言葉も、「自分が描きたいものを描くべき」ではなく「より多くの読者が楽しめるものを書くべき」という言葉にして読み替える必要があるでしょう。
その後に続く
それで失敗
しそうな感じだったら、それでようやく、得意技の「波動拳」を撃つ
一手でしょう。(毎回波動拳を連発していると、飽きるし飽きられる)
という言葉の裏には、「自分が一番得意で安全なジャンルはラブコメ(=波動拳)だが、読者全体がラブコメ好きとは限らない」という自己分析(消費者分析)が隠されていることも解ります。
昨日のコメント欄で、id:relationshipさんから「赤松さんの考える読者層ってのも気になりますね」というコメントをいただきましたが、具体的に『魔法先生ネギま!』では、主人公を10歳の少年にすること*3で「女性層の取り込み」と「読者の低年齢化」(小学校高学年あたり?)が試みられているそうです。
『ラブひな』ではせいぜい中学生〜20代の社会人男性までがターゲットだったと思われますが、作品のジャンルをラブコメから解き放つことで、(面白い作品にする力量さえあれば)読者層の拡大に繋げられるわけです。*4
逆に言えば、いくら漫画の才能が有っても同じジャンルを描き続ける限り読者層の広がりは見込めないということでもあるでしょう。
無論、同じジャンルに集中することで幅広い層にヒットさせる作家も存在しますが、そういう作家はそのジャンルにおける「天才」と呼ばれることになります。
しかし、そのように一点突出した「天才」ではないのが作家の大半です。
「天才ではない作家が、どうすればより多くの人々を楽しませることができるか?」我々漫画読みは、その実践的手法を『魔法先生ネギま!』という作品を通して確かめていくことになります。
・
・
今日の日記は短かったので、「おまけ」としてコラム的なものも書いておきます。
赤松さんの作家的性格を読み取る上で象徴的なのが、「ビートルズではジョンよりもポールが好き」で「クラシックではベートーベンよりもモーツァルトが好き」という好みのベクトルが明確にある所です。
再び2002年(前半)の日記帳から「3月7日」の記述を引用しましょう。
今日は、初台の新国立劇場にて、モーツァルトのオペラ「魔笛」を観劇。
・・・実は、オペラは初めて見たんですが、ちゃんと舞台上部に字幕(?)が
出るので、非常に楽しめました。ビートルズで例えると、モーツァルトはポールで、ベートーベンがジョン。
ポール派の私は、モーツァルトがありとあらゆるジャンルで”売れ線の曲”
ばかりを書けるのが本当に凄いと思っているのですが・・・・世間では
何故かベートーベンの「第九」やジョンレノンの「イマジン」の方が
ずっと尊敬されているようで、何か気に入りません。(^^;)同席したTさん(※アニメ業界人にあらず)によると、ベートーベンにも
オペラはあるが、あんまり(後世に)残っていないとのこと。
そういえば、全然聞いたことないかも。
赤松さんはクリエーター全般を、いわゆる「天才タイプ」(赤松用語では「ニュータイプ」)と「秀才タイプ」(赤松用語では「強化人間」)に分類することを好みます。勿論ここではジョンやベートーベンを天才になぞらえ、ポールやモーツァルトを秀才になぞらえているのが解ります(もちろんモーツァルトも天才には間違いないのですが、タイプで言えば、ということです。マイペース型と、繊細な環境対応型という分け方でもいいでしょう)。
そして、赤松さん自身が自己の指針としているタイプは……と考えれば、より赤松さんの創作態度が見えてくることでしょう。