森川嘉一郎の“侘び・寂び・萌え”戦略について
ファウストにコラムもあるのでちょっとコメントしておきます。
ぼくは日頃から口を酸っぱくして言ってることですが、「萌え」なんて言葉はセックスや性倒錯のごく一部の世界*1を表現しているフレーズでしかねえんだよということ。
「萌え」と性倒錯を同一視されて「いや、エロと萌えは別だ」と言って反論しようとする人も居るかもしれませんが、むしろそれは、性倒錯の世界に対して失礼というものです。
エロさのない性倒錯なんてのは遙か昔から山のように存在してんだよ。だから「萌え」はその特殊性や新しさなどを無闇に主張せず、大人しく性倒錯の深い世界の末尾に加えられていればよろしい。逆に言えば、全ての性倒錯は「萌え」というフレーズで表現することもできるわけですが。
さて、それは置いておいて、文化戦略的に「萌え」という言葉をオタクワールドの外(国外やビジネスの場など)に売り込むことはまぁ……それなりに意味があるんじゃないかと。
ただこれは前述したような、萌え=性倒錯でしかないことを忘れた近視眼的な立場でいると当然良くない。「日本の萌え」について説明しているつもりが、
「日本のオタクには“性倒錯”というメンタリティがありまして……」
と言ってることと変わりなくなってしまいます。*2それだと日本美術を説明する時に「日本人には“美しい”というメンタリティがありまして……」と言ってるようなものでしょう。
でもこれが「日本人には“侘び寂び”というメンタリティがありまして……」という説明ならちゃんと日本美術の説明になっているように、「日本のオタクには“ダメなもの、ヘタれたものを愛する”というメンタリティがありまして……」という説明ならちゃんと日本独自の萌えを説明できているわけですから、森川氏はそこらへん良く考えてるなーとは思います。
もちろん日本美術の中に全然ワビサビじゃないハデな美術だってあるように、萌えの中には強いものやクールなものに対する感情も含まれているわけですが、逆に言えばそれらは「日本独自の文化」では無い*3わけで、とりあえず切り捨てて構わない部分なのかもしれません。