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2クール目の『ふたりはプリキュア』を振り返って

 というわけで、第24話の戦闘シーンは「第21話で使用された挿入歌をかぶせつつ今までの戦いを回想しながら戦ってた」ことにして脳内補完終了。つーか誰かそんなMAD作ってくれませんか。

 世界観の説明を怠っていたツケがまわって、デウス・エクス・マキナ的とも言える唐突な物語処理をしなければならなかったことについては、まぁ不問としよう。*1
 最大の問題は、キリヤ編(第17話〜第22話*2の間)で丹念に積み上げてたテーマを活かした演出が全然できなかったことなのだ。
(だからこれは脚本レベルではなく、シリーズ構成の落ち度なのだと思うが、今回の脚本はシリーズ構成の川崎良だったりするのでちょっと笑えない指摘だったりする)


 良いTVアニメというのは「シリーズを通して配置された伏線が後の演出で活かされて初めて感動が伝わるもの」であって、そういった演出の素晴らしさを我々は『カレイドスター』の演出から学び直すことができたはずだ。1クールアニメ、2クールアニメが横行している現在、必要なのは「4クール以上の長さで感動を伝えてくれる番組」であり、そして、それを楽しむことのできる「目」なのだ。
 さてここで、アニメ誌における西尾大介シリーズディレクターのコメントを引用しよう。

ぼくがアクションもので好きなのは、登場人物の「一所懸命さ」が伝わるところ。
「一所懸命」だからこそ心打たれる。
プリキュアの戦いでは、見た目の勢いより、内面の、心の勢いを感じてください。
なぎさとほのかの絆はぐっと強くなった。
でもふたりが本当の力を発揮するには、もっと自然な、無償の信頼感が必要です。
そのためには、相手は自分とは絶対に違う人間だ、ということをまず認めないといけない。
違うふたりが手をつなぐ、これが『プリキュア』のテーマ。
今はまだゆるゆる続く成長の上り坂の途中なんです。
やがてほのかは、キリヤの正体を知ることになる。
その意味では18話はほのかの試練の始まり、と言えるかもしれません。

 これを読むと、キリヤ編におけるテーマ性の高さは西尾SDの意向通りだったと言っていいだろう。それが第23、24話で活かされないのは川崎良と意向の対立があるのか、それとも「ゆるゆる続く成長」らしさを優先した結果なのか、という所だが。
 まぁ、ではその「ゆるゆる続く成長」について考えてみよう。
 プリキュア達が経験している「成長」や「勝利」は、ある意味リアルだと言えなくもない。彼女達は「実力で敵わない敵には、実力で勝てない」ことが多いからだ。

  • 成長のリアリティ

 第11話*3は漫画用語でいうところの「イヤボーン*4」であり、第20話*5は「アイディア・友情・勝利」に則った勝利を得ている。
 しかし第10話*6や第15話*7、第17話*8、第18話*9、第19話*10、第24話では主に「謎の力の助力」に頼った勝利をしており、そこで彼女達の成長は(予感はされても)具体的に描かれない。彼女達はリアルな速度で成長する女の子達であり、また、実力が及ばない時は「何か正体の解らない優しい力」(キリヤの言う「石同士が引き合う強い力を感じる」ということ?)に助けられている。
 プリキュア達は「友情」によって伝説の戦士に変身し、「謎の力」に愛されてピンチを脱する。
 では、個人としての成長はいつ描かれているのだろうか? それはとてもリアリスティックな速度で進んでいるようにも見える。彼女達が「実力で敵わない敵に、実力で勝てない」のは、そんなリアルな成長速度を示唆しているのではないだろうか。


 もう少し、漫画の話をしてみよう。
 少年漫画における主人公は、強敵を倒すことで相手を超える強さを獲得し、成長を果たすことが「王道」だ。そういった急激な成長こそが少年漫画のカタルシスの中心だと言ってもいい。だが、成長の急激さは安易さに繋がるものでもあって、時にリアリティを損なう表現だとも言える。故に「王道」の影響下にある少年漫画は主人公に過剰な「努力」をさせることで成長のリアリティを補おうとする。少女漫画である『エースをねらえ!』もこの法則を守っている。
 逆に、荒木飛呂彦(特にジョジョ第三部の「スターダストクルセイダース」以降)などの影響下にあるアイディアバトル漫画は、成長そのものの描写を避けているのだ。*11
 そのような作品は「王道」ではなく「変化球」と呼ばれる。例えば、最初から主人公が最強であり、成長しない、というのも「変化球」のひとつだ。

  • 「直球」と「変化球」

 すでにお解りだと思うが、『ふたりはプリキュア』というアニメのヒロインは(スポーツや勉強ではなく、戦士としての)「努力」が描かれないし、だから成長も直接描かれない。少なくとも、ここまでの24話分では。3クール目からどうなるかは、まだ我々は知らないのだ。
 それに加えて、この日記で何度も指摘しているように『ふたりはプリキュア』は「勧善懲悪」というテーマに対する取り組み方がかなり特異で、ここでも「変化球」を我々に投げかけている。*12
 多分、プリキュアを期待して観ている人は「王道」や「直球」を求めている人が多かったと思う。しかし現在プリキュアが投げているボールは「変化球」だと結論づけていいだろう。
 この「変化球」は「見たことのないもの/先が読めないものが見たい」という我々大人の欲求に応えるものであって、ぼくは非常に楽しんで観ている。
 もちろん変化球がキツすぎると誰も打て返せなくなる、という懸念はあるだろう。それは受け手の読解力の問題でもあるし、作り手にとっては「メインターゲットである子供に伝えられなければならない」──つまり、「心に直接伝えられないといけない」──という最低限の要項をクリアできるかという、クリティカルな問題でもあるのだ。


 こんにちのTV番組の中で、「安心して観ていられる」番組はあるし、逆に「観ていられない」番組も多い。
 『ふたりはプリキュア』は、「目が離せない」番組だとぼくは感じている。

*1:多分、ヒーローものにはナレーターによる説明が必須だったのだ。富山敬デカレン古川登志夫のような!

*2:「トキメキ農作業」〜「忠太郎がママになる」

*3:ゲキドラーゴ退場回

*4:出典は『サルでも描けるまんが教室』。主人公の感情が(愛する人の死などによって)暴走し、「イヤー!」と叫ぶことで超能力が発現→敵が「ボーン」と死んでしまうお約束のこと。こう書くとつまらないパターンのように思えるが、例えばジョジョ第三部のディオvs承太郎戦はイヤボーンの一種であることに注意。要は見せ方の問題だろう

*5:ポイズニー退場回

*6:「ほのか炸裂!」

*7:「メッチャ危ない家族旅行」

*8:「トキメキ農作業」

*9:「中間テストは恋の迷宮」

*10:ドツクゾーン最後の切り札

*11:荒木飛呂彦は他の漫画に影響を与えただけであって、ジョジョ自体は「王道」的な成長物語であることに注意

*12:そういえばみちたろさんは「多元主義としてのプリキュア」という題で、ヘーゲル弁証法を用いた成長がみられないことを指摘していたが、これは「勧善懲悪」といった理念的なレベルの成長だけでなく、「強さ」という個人レベルの成長においても言えることではないだろうか、と補足しておく