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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

プリ・プリとマリみて、グリーン・ウッド

 以前書いた(id:izumino:20040310#p2)「男マリみて」という喩えですが、あれでは言い方が悪かったというか説明不足でしたので、もう少しツッコんで考えてみます。
 ぼくが思うのは「マリみてを男子校にしたのがプリ・プリ」という単純なことではなくて、「女性のマリみての読み方と、男性のプリ・プリの読み方が似ている」ということだったりします。*1


 前置きで少し話がズレますが、一時期「マリみてグリーン・ウッドに似ている」という見方をする人がそこそこ居て、それにぼくは結構反発したものでした。
 マリみては<吉屋信子クララ白書→丘ミキ→ひみつの階段……>という少女小説少女創作的な「女子校モノ」の直系であって、それはGWとは別のラインだろう、と。むしろ少女漫画家によるGWの方が「(少年漫画的)男子校モノ」に女性的感性をアダプトしたものであると語られるべき*2だ、とか。まぁ、そこにケストナーの『飛ぶ教室』とか持ってくると、どっちも「寄宿舎モノ」として括れちゃうんですけどね……。
 その上でまぁ、ブームとしてのGWとマリみてには共通項が多いと、今では思います。男女共に楽しめる、という意味でです(これは多分、どちらも「恋愛」を物語のメインに持ってきていなかったり、安易な「やおい(百合)」に走らせていないのが間口の広さに繋がっていると思う)。
 似ているのは中身の構造というよりは、「読者の受け入れられ方」なのでしょう。


 で、男性がマリみてを読んだって全然かまいやしない(面白いですからね)、と基本的には思う……んですが、それが「萌え」目当てで読むようになるとどうかなと。いわゆる「男性的視点の出口も入り口も無い」状態で無理矢理萌えてるんじゃないかな、と。
 この「出口の無さ」をクリアするのはなかなか難しくて、色々な批判もあるし、スミに置いておけない問題だと思うのです(別に気にならないっていう人が大半なんでしょうが)。


 で、女性にマリみてがウケた理由のひとつとして「(本来出口の無い筈の)やおい世界から少女世界に立ち戻ることができる」、というポイントがあっただろうと想像しています。
 マリみては既存の「女子校モノ」のラインに「やおい回路(=関係性萌え)」をソフトに組み込むことによって、彼女達の支持を得たと言ってもいいかもしれません(ここらへん、女性ではないぼくの意見なので反論もありそうですが)。


 それとは逆に、男性がプリ・プリを読むことには「美少女萌え世界から男の子世界に立ち戻ることができる」という効果が付いてくる、と今の時点では考えています。プリ・プリは、まず「絵の良さ(女装とかゴスロリとか)」から入って読むことができますが、その中にあるのは女装っ子萌えやボーイズラブではなく、「良く出来た学園コメディ」であるからです。
 その点で、プリ・プリマリみてシンメトリックな関係を(偶然にも)有していると考えるのですが、どうでしょうか。

  • 余談1

 ところでプリ・プリがGW的学園コメディとして成功してしまったのは「作者の『うっかり』の結果である」、というのは間違いないと思うわけですが。うっかり出してしまった坂本サマや実琴といったゲストキャラクターが「うっかり」人気を出してしまい、本筋である亨や裕史郎の「成長」以上に脇キャラ達が一人歩きする「日常」が作品の魅力の中心になってしまっている……、と。しかもその現象を作者が自覚してないのが凄い、という意見は結城さんの意見と一致するところであります
 読者からすれば、明らかに実琴=スカ(主人公)で、厳しいツッコミ役の裕史郎が瞬、有定会長は光流と忍の一人二役……って感じのキャラ配置だってのに、つだみきよの中では「なんでみんな実琴が好きなの?」なわけだしなあ。
 でもその天然っぷりが好きです。

  • 余談2

 プリ・プリが男性読者にも楽しめる理由というのは確かに「安易なやおいに走らないから」なのだと思うけども、いやむしろ俺はかなり「やおい視点」で読んでるんですけどそれってどーなのよ的なアレが。「亨X裕史郎」とか「裕史郎X実琴」とか想像すると鼻息が荒くなりますよというか裕史郎の言動はかなりバイ臭いと思います(腐)。男子生徒の姫に対するキャーキャーっぷりにもシンクロしてしまいますよ。そうだ、解ってても裸は見たくないよな。*3

*1:まだ仮説のつもりですが

*2:頭のカタい言い方

*3:ぼく自身がこんな楽しみ方してるから、プリ・プリを読んだ男性の感想っていうのはもっと広くリサーチしておきたいんですけどね。苦笑