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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

萌えについて2

 もう少し考えを進めてみます。


なぜ「見透かされない萌え」の時代へ変化しているのか?
 この話題のポイントが「見透かされると萎える現象」にある、というのは少し違うでしょう。
 「見透かされたことに気付くと萎える」というのは、むしろ非常に一般人的な感性です。今までオタクが見透かされることに寛容だったというだけで、ただ類似作品が溢れるあまり、感性が一般的に戻っただけのことでしょう。それは考察が必要なほど、特別な変化ではないと思います。


 言い方を変えれば、「見透かされた作品に萌える」ということは、萌えオタクにとって一種の「技」です。本当は萎えるんだけど、あえて送り側の「手」を読んでその上に乗っかったり、違う萌え視点を得るということ。これは彼ら自身の「技」ですから、そこに自尊心も発生します。ですが、同じパターンの「技」で対応できる相手は飽きるし、疲れてくる筈です(ちなみに、見透かされていることに気付けなかったり、気付いたフリをして思考停止するオタクは論外)。


 更に言い方を変えると、「見透かされた作品」を楽しまなくなった時点で、その人はオタクの「技」を放棄している、とぼくは思います。マリみての愛読者が「これは萌えじゃない」「普通に感動するんだ」と主張しがちなのもその為で、多分、彼らはオタクの「技」を離れて普通の感性で読書しているつもりなんですね。「萌え」という言葉を使うと一般読書から萌えオタクの感性に戻ってしまう気がして、それを嫌う傾向があるんだと思います。*1


 ここから先は米澤氏の発言とは関係ない、ぼく自身の考えになりますが、ぼくは「萌え」という言葉(を濫用する人々)が一面的には嫌いです。便利すぎる言葉だからです。
 本来は「好き」と言えば良かった感情が、全て「萌え」で説明できるようになってから「どのように好きなのか」を考えなくていいようになってしまった。そこには消費の効率化と思考停止があるだけで、何も発展性が無いような気がします。
 ですから、米澤氏が「萌え」の限界を(マリみてを例に挙げて)提示したのは好ましい、とぼくは感じます。
 少なくとも「萌え」という言葉の使用を否定することによって、何らかの発展性はあるでしょう。*2


 限界を意識することで初めて、正直に「マリみては萌える」と言えるようになると思います。
 「私が○○に萌えるかどうかを決める。でもそれはあなた達が考えるような萌え方ではない」という、当たり前のことを言える(受け入れられる)かどうかが問題なのではないでしょうか。*3

*1:男がコバルト文庫を読むのは明らかにオタク的な行為だし、結局はどこかに萌えを探してしまうと思うけど

*2:それが「俺は萌えてない」っていうだけの、別の思考停止だったら意味は無いですが

*3:そこらへんは、フェチ板の書き込みを参考にすればもっと視野は広がると思う。そこだと人と人のフェチ(≒萌え)が違っていて当然だから、みんな割と平気で「萌え」を連呼している