HOME : リクィド・ファイア
 移行後のはてなブログ:izumino’s note

自分の対人コミュニケーション能力についての覚え書き

  • ぼくは対人恐怖症というよりも、ただ本質的に、人とコミュニケーションしたがっていないだけなのではないか
  • 更に突き詰めると、「この人とは意思疎通ができない」と感じた時の絶望感、その場から一歩も動きたくなくなるような「怠さ」をぼくは嫌悪しているのではないか
  • その嫌悪感を乗り越えて意思疎通をせよと(社会的に)要請してくる他者=上位のコミュニケーション能力所持者に恐怖を感じるのではないか
  • この「怠さ」の解決には二通りの方法が考えられる
  • a.「万全を求めない」──日常的なコミュニケーションで躓き、大きな挫折感を覚えるのは、常に最大効率の意思疎通を計算するからだ。ほどほどの疎通でも満足しなければならないし、無闇に全力を使う意味も無い
  • b.「余裕を持つ」──ひとつのショックで行動できなくなるのは、そのショックが致命的だからだ。かすり傷なら多少痛いだけで気にならないが、深手だと行動が鈍るし自ずと次の手が打てなくなる。ショック自体を和らげるか、深い傷にも耐えられるような術を得なければならない
  • その上で、やはりぼくは自分と世界の違う人々と意思疎通したがっていない/するつもりが無いように思える
  • 「できない」と「したくない」だと、「したくない」の方がタチが悪いだろう
  • ぼくの場合はコミュニケーションが「苦手」や「下手」なだけではなく、積極的に「しない」のだから、社会的な要請に応えられるだけの自信もない

 とりあえず自覚しているのはここまで。ようやく言語化可能な程度には整理できるようになった。
 ぼくの人生を振り返ると、なるほどこういう性格に育つしかなかっただろうなという生活をしている。思春期に「荒療治」を経験していないのだ。