今野緒雪『マリア様がみてる バラエティギフト』(ISBN:4086003600)
書き下ろし部分の由乃が可愛いすぎる。一年生組頑張れ。表紙も凄くいいなあ。
……何も考えずに印象感想を垂れ流すと、こんな感じ。
雑誌掲載された短編を除く新作部分では、このように由乃のプッシュっぷりが目立つわけですが、これは「現二年生組」が薔薇さまに変化するまでの準備段階なのではないか、と読んでもいいかもしれません。
一年生の頃から既に貫禄があり妹も持っている志摩子や、前巻の流れから「リリアン最強キャラ」認定されつつある*1祐巳はともかく、由乃はそこらへんの説得力が少し足りない。
そこで、前薔薇である江利子が「猫っ可愛がりしてた」という“押し”が必要だったのではないか、とか。
……そう考えてみると、リリアン社会での「力」ってのは「=より強く愛されていること」なんですな。力の最小単位は「愛」ですか。神さまみたいだな。
さて、全体的には「本編のストーリーでは通常やれないが、リリアンという社会を補強する為には必要なエピソードをクリアした巻」という印象でぼくは読みました。順番に見ていきましょう。
- 降誕祭の奇跡
ぼくはなんとなく『夢の宮』シリーズに近いイメージを想起した短編です。案外、今野さんの「素」の作風はこっちに近くて、マリみての息抜きとしてこれが書かれたのかもしれません。
この短編に特徴的なのは、本編では匿名的にしか描かれなかった「教師」という存在にキャラクター性が与えられている点。それも、その教師はリリアンのOBであり、現在の生徒と交流することで過去の高校生活を思い出す、という『ひみつの階段』的な構造を取っています。
今までの本編で教師役にキャラクター性が与えられなかったのは、『ひみつの階段』シリーズのイメージと被るのを避けていたからでしょう(というか、どうやっても似ちゃうんだろうな、アレには)。同様に、リリアンには女子寮がある筈なのですが女子寮生活の描写が皆無なのは、『クララ白書』から『ここはグリーンウッド』まである既存の「寮モノ」との重複を避けたからだと思います──だから逆に、女子寮はいずれ短編で扱って欲しいテーマだったりしますが。
あと、この日記の最後にネタバレ解釈をしてます。その解釈コミで、この短編の評価は結構高いです。
- ショコラとポートレート
どうもこの話は、蔦子の妹候補話として読まれることが多いみたいですが、その着眼点はなんか違うなー、と。まぁ、別にその読み方を否定するわけではないんですが。
本編でのスール関係は、「実の姉妹愛を超える関係」として描かれる傾向があって、実の姉妹はどうしても「スールより劣るもの」と認識されがちです*2。それどころか、実の女兄弟を持ったレギュラーがまったく居ない(!)のも問題で、彼女たちは「不在の姉妹」を求めるからこそ強固なスール関係を築いているのかもしれませんが、それでもやはり「実の姉妹愛」が本編で描かれることはない。
リリアンを理想的な女性社会として見た場合、このように「スール制度の過剰化」によって「実の姉妹愛」を抑圧することは、社会的な欠陥として表出してしまうのではないか?
もともと、実の姉妹というのは女性学においても特殊な関係とされるようで、海外には "Sororophobia(ソロロフォビア=姉妹恐怖)"というまんまなタイトルの研究書もあります。
もちろん仲が良くないよりは仲が良い方が望ましいわけで、ですからこの短編は(スール制度に頼らない方法で)ソロロフォビアを克服する話、として読めるんじゃないでしょうか。そういう意味で、マリみてというシリーズ全体に必要なエピソードだったと思います。
あ、そういえば令と吉乃の母親はお互いの実兄と結婚してるんでしたっけ。由乃は瞳子に向かって「血のつながらない」「遠縁」などと血縁関係にこだわった指摘をする辺り、リリアンの中ではちょっと変わった子なのかも。
- 羊が一匹さく越えて
これは特に考えることもせず、普通に読んでました。
まぁ、リリアンを外部の視点から眺めた話ということで。
- 毒入りリンゴ
リリアンを卒業した生徒はスール制度とどう折り合いをつけるのか、という問いの上で貴重なサンプルケースなんではないかと。
するっと姉妹離れをするのが一般的で、「パラソル〜」の頃の蓉子の様に、卒業しても妹べったりっていうケースの方が特殊みたいですけどね。
- 「降誕祭の奇跡」のネタバレ感想
結論から言うと、「奇跡」は奇跡ではないと。
キョウコが受けた手術は盲腸ではなく、とても成功率の低い難病の手術だったのでは。
だから周囲の大人達は、本人を怯えさせないために「盲腸」としてキョウコに信じ込ませていたのでは?
そしてキョウコの手術は失敗し、死亡した。
周囲の大人達にとって想定外だったのは、亡くなったキョウコが黒須ひかりという少女と絆を築いていたこと。
ひかりの母親からそれを知った大人達は、キョウコを「夢」としてひかりに信じ込ませることを選ぶ。思いやりから生まれた嘘の反復。
だが、ひかりは自分の体験を信じようとする。
ひかりは「クリスマスの直前に盲腸で入院した生徒」を探し続けるが、キョウコは「盲腸」で入院していないから、見つけられない。
ひかりから事情を聞いた三田今日子は、自分が盲腸で入院した時に、親切心からかひとりで調査を開始する。
そして今日子は真実を知ったのではないか?
それで彼女の選択した行動が、あのようなものだったのではないだろうか?
以上は想像にすぎないが、今日子の決断はとても貴いもののようにぼくは思える。
どういう読み方をしてもいい様に書かれたお話ですから、どんな解釈でもいいと思います。基本的には。子供が読む小説でもあることだし、奇跡だとしても構わないと思う。
ですが、こういう真相を表面的な結末とは別に用意してしまうあたりに、作者の人間観が窺えて、なんだかいいなあとぼくは感じるんですが。