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佐藤友哉「慾望」・補

 連想法で「慾望」の解釈をもう一つ思いついた。もりしげの漫画における男性達は、ただ≪少女に苦痛を与え絶望させる存在≫として無機質かつ非人間的に描かれることが多いのだけど、「慾望」における4人の生徒達も、ただ≪主人公の理解を拒み了解不能さを痛感させる存在≫として無機質かつ非人間的に描かれている。
 この4人の生徒達って、≪佐藤友哉から見た他者のイメージそのもの≫なんだろうか?
 「喫茶店のメニューを選ぶような感覚で人を殺す人間」っていうのは「なんとなくの気分で本を買ったり買わなかったりして作家生命を左右する読者」のことで、だとすると「売れない小説家から見た読者はそんなイメージなんじゃないか」っていう気もする。どうだろう。
 佐藤は「群像」のコラムでも「他人がいつ本気で暴力を振るってくるのか解ったもんじゃない。いつでも他人に殴られる覚悟をしなくちゃいけない」というようなことを書いていて、いやそれは貴方の勘違いですよ実際はそんなことないんですよと優しい言葉をかけたくなるのが人情というものだが、そういう世界像を、佐藤は作家生活を通して身に付けてしまったのかもしれない(元々そういう傾向はあったにしても)。
 そうすると「慾望」は自分自身のことを書いた私小説なのかもしれない。でももしかしたら「群像」のコラム自体がウソなのかもれない。それは解らない。


 だがやはり、舞城王太郎が『煙か土か食い物』の中で四郎から三郎に対して説く説教(お前の小説がつまらんのは自分のことを書かんからや、原稿に自分を塗りたくれや、と云うくだり)を思い出す度に、ぼくは思ったりする。三郎の立場に近いのは舞城自身であって、四郎の立場に近いのはむしろ佐藤なんだなと。