『ゼロ年代の想像力』に向けたメモ
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今にわかに話題の、宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読了。こういう波風を立てる人が出てくること自体はいいことですね。
紙幅の関係で書ききれなかった部分かもしれないので、現時点では余計なツッコミにもなりえますが、あえて少しツッコミを入れてみます。
エヴァンゲリオンを「引きこもりモノ」と呼んで「生き残りモノ(=決断主義)」の反対に置くのは不完全な対置で、あの「アスカ復活」を無視していることになると思います。
シンジも最初は、目の前で倒れるレイを見て「逃げちゃダメだ」を連呼し、エヴァに乗り、「男の戰い」を演じ、でも最後はエヴァに乗らなくなる。
ここだけ見ると確かに「引きこもりモノ」ですが、一方アスカは「死ぬのはイヤ」を連呼し(シンジとの対比ですね)、復活する。勿論その後、量産機に負けちゃう*1んですが、最後までアスカは逃げたりしなかったし、そして何より、アスカは劇場版のラストで「シンジからも逃げない」。アスカを消そうとしたシンジを受け入れる。「二人で生きる」為に。
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だからエヴァはアスカが主役の物語でもあるんですが、その視点を抜きにして「エヴァ=引きこもりモノ」と片付けてしまうのは、むしろ「90年代の想像力」なるものを歪めて伝搬していることになりやすまいか、と思うわけです。
で、ぼくから見ると、世紀末から00年代初期までに流行ったバトロワとかクーデタークラブとかカイジとかって、極端に言えば「アスカ復活」の延長線上のものだったんですよね。
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「確かに命がかかればやる気を出せるかもしれないけど、そんなシチュエーション現実にないじゃん」という、重度の引きこもりや鬱の人には特効薬にならないものだった(大抵、苦いエンドにしかならないのも「アスカ復活」と大差無し)。
その、「そんなシチュエーション現実にないじゃん」というツッコミをフィクションの中に入れて、バトロワ的発想と引きこもり的発想をくっつけたのが、佐藤友哉の『鏡姉妹の飛ぶ教室』だったのではないか。逆に言えばエヴァも、構造的には『飛ぶ教室』に近い、「折衷型」だった? わけだ、元々から。
そして『ドラゴン桜』あたりになって、「現実感のある生き残り」と、「生き残った時に得られる将来」を提示できるようになった、と。
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大雑把ですが、ここまでが、ぼくの目で見てきた90〜00年代の認識です。そして、この先がツッコミの本題になります。
なぜメジャーな「少年漫画」は無視されるのか
でも『バトル・ロワイヤル』や『ドラゴン桜』以前にも、「生き残り」とか「決断主義」、「その問題点と克服」を描いてきたモノというのは、少年漫画なんかの中にいくらでもあって。
この宇野常寛という人も含め、「批評家が見逃してきた」のは古典の温故と、王道復古(=伝統の継承)なのではないかと思う。時代的な「はやりもの」と「話題作」だけを並べて、本来のメジャー作品や「伝統の流れ」を無視するのは、評論家の悪いクセだよね、と思う。
個人的に、今の時代の課題は、(声の大きな)消費者から「温故の技法」が失われていることであって、そこを片付けるのが先決ではないか、と愚考しています。
何もデスノートとかコードギアスみたいな、「新しい(?)想像力」に注目させるような批評よりも……、例えば「いくつもの少年漫画から価値を見出していく読み方」を、もっと浸透させるような批評が出てきた方がいいんじゃないか、と。
「泥臭い少年漫画を読んでも感動できないから、新しい想像力よ出てこい!」というムーブメントを煽るだけではなくて、泥臭い少年漫画にはこういう価値があったのか、ということを示すことの方が重要なのではないか。
声が小さいだけで、「温故だけで充分」で「温故によって救われてきた」消費者というのは、年齢層も広いし、大きい集団を作っている筈です。それは、無視しない方がいいでしょう。
2007-05-06
「理屈じゃない、飛び込んでいけ、っていうテーマの漫画とかも、そういうメソッドで戦えって言ってるんですかね」
少年漫画の世界は、基本的に子供向けのエンターテイメントですから、小難しい思想らしさや、リアリティのようなものは描きません。
しかし長い年月をかけて「ヒーロー像」を追究してきた積み重ねがあり、何が正しくて、何が正しくないのか、どんな時にやる気が出せて、どんな時にやる気が出ないのか、どんな人間が世界を変えることができるのか、という「智恵」が蓄積され、堆積しています。
それは一作だけを読んで理解できるような「思想」の形を取ってはいないけど、いくつもの作品を読み比べてみると、作品同士がアンサーを投げ返すような関係を持っていることに気付き……、読者の中にひとつの大きな「少年漫画マインド」を作り出します。そのマインドは、読者が自分の実生活と照合することで淘汰・精錬され、有効な「生き方のメソッド」を形作っていくでしょう。
ぼくが「少年漫画の愛好家」と呼びたいのは、そういうことを続けている人達です。
たとえば『魔法先生ネギま!』という作品では、「わずかな勇気」という、少年漫画のテーマのひとつである「飛び込む勇気(決断主義!)」に対するアンサーとアフターケアがあります。
『あやかし堂のホウライ』という作品では、『うしおととら』へのアンサーと、うしとらでは描ききれなかった「トラウマからの解放」が昇華されて描かれています。
また、特に「自分を信じる」というテーマは、ありとあらゆるエンタメ作品でアンサーとアンチテーゼが繰り返され、いわば「思想的に刷新」されている状態にあります。
それは90〜00年代という、短いスパンで考えられる問題ではないし、今もなおリアルタイムで続けられていることである、ということです。
しかも、わざわざ古典的な作品を探して学ぶようなことをしなくても(できれば触れた方がいいのは確かですが)、最新の作品をいくつか読めば、大事なことは学べてしまうのも「保存されてきた伝統」が持つ「力」なのかもしれません。
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/ragan/html
この、宇野氏による『天元突破グレンラガン』評を読んで、まぁ率直に思ってしまうのは「それってグレンラガンだけの話じゃないでしょう?」に他ならない、と言ってもいいかもしれません。
「アニキ」が死んだ世界で、どう生きていくか? 〜『天元突破グレンラガン』第11話によせて
そう、たしかに僕らは今、「アニキの死んだ世界」に生きている。正しいことを知っている大人に、黙ってついていけばいい、なんて発想はむしろヤバい。もしかしたらその大人は、僕らにサリンを撒けと命じるかもしれないからだ。歴史や社会だって、もう個人が「生きる意味」を与えれくれない。
(中略)
俺を誰だと思っている、俺はシモンだ、カミナのアニキじゃない、
俺は俺だ! 穴掘りシモンだ!!なんとカッコ悪い、そしてカッコイイ前口上だろうか。
思えばこの10年間、アニメ界は、いや、オタク的想像力の大半は、この『グレンラガン』の第8話から第11話の間を右往左往していた。
「俺は俺だ!」「少年はヒーローを目指すが、目指したヒーローそのものにはならない」というのは、少年漫画マインドにおける基本中の基本と言っても良く、確かにそれは時代に応じて洗練されていかなければならないテーマ(=温故)だけども、ぼくは色んな作品から「そのテーマのバリエーション」を感じ取ってきたわけで、グレンラガンは「理想的な最新バージョンを見せてくれるであろうモノ」のひとつにすぎません。
そして、「自分の足で立つ」ことの魅力と危うさをテーマにした作品、誰もが自分の足で立った結果発生するバトルロワイヤルをどう、生き延び、止めるかということをテーマにした作品も多数出現している(『DEATH NOTE』『コードギアス 反逆のルルーシュ』『LIAR GAME』)。
さらにその先、「自分VS世界」といった自意識に立脚した世界観を解体しつつある想像力すら、現代には既に渦巻いている。
確かにそうだろうけども、それは「現代」(『鋼の錬金術師』や『コードギアス』)ではなくて、もっと長いスパンで、メジャーなストリームの中から発見できるものでしょう。
勿論、現代の物語が新しいプラスアルファを生み出しているということは、ぼくも認識していることであって、それらに注目し、語ることは歓迎すべきです。
でもそういえば、元々グレンラガンは「熱血」や「泥臭さ」の復古をモットーにして作り始められた作品じゃなかったのかな? そうすると、グレンラガンのシモンが「俺は俺だ!」と叫び、アンチテーゼを経験し、乗り越えていくのは当然の帰結だとも言えます。
そういう大きな流れを意識することが、作り手にとっても受け手にとっても益する批評になりうるのではないか、と感じます。
*1:だからBGMにも「偽りの、再生」というシビアな曲名が付けられている
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- ダマシオの『感じる脳』を読んで以来、インスパイアを受けまくっているスピノザですが、入門書としてはおそらくこれ以上ないだろうと思えるくらいわかりやすい本でした
- 直観的に「スピノザの神」は「老荘のタオ」に似ていると感じていましたが、「もしスピノザがユダヤ/キリスト教文化の中からではなく、中国文化の中で思弁していたら」という思考実験を遊ばせても面白いと思います
- 『老子』の論弁的な漢文はプログラム言語による記述を思わせる所も多く、幾何学的な証明を旨とした『エチカ』からも老子と似たような印象を受けます
- そういう意味でこの『スピノザの世界』は、入門書としては(『老子』における)『タオのプーさん』みたいな本じゃないかな、と思ってみたり(流石にプーさんほど柔らかく書かれているわけじゃないですが)