まだ誰も呼び方を思いつかぬ漫画論
5月10日に発行予定の同人誌『漫画をめくる冒険』下巻を、夏目房之介さんに紹介していただけました。
ただ、ちょっと困ったのは(たぶん夏目さんも困って書いた気がする)、この本で展開している内容を「表現論」だとしている所です。
泉さんの、期待の下巻です。ものすごくわかりやすい文体でありながら、読者視点の表現論を切り開いてくれています。
どう呼ばれてもいいと言えばいいのだけど、レッテルというのは一人歩きしがちなものですから、少なくとも表現論に分類されるのは避けたいと思っているんですね。
読者の方からも「これはなんて呼べばいいのか?」「何か別の呼び方があった方がいいのでは?」「他の名前の方が内容をイメージしやすいと思う」といった声が良く届いたりします。
ぼく自身、『ユリイカ』の座談会(夏目房之介、宮本大人、泉信行)で
「ぼくはこれを表現論だと思っていない」
……ということを主張していました。
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ですが、人前で自己紹介をしなきゃいけない時などは、どうしても「夏目さんの表現論みたいな〜」という、口を濁した説明をしていたものです。
でも、ここでは紛らわしいことを言うのを避けて、はっきり「表現論ではない」と言明しておきたいと思います。
ではなんなのか、どう位置付けすればいいのか……。一年間、悩んでいた問題でしたが、ふたつの側面があるんじゃないか、という思い付きはあります。
これはメディア論であって、漫画の基礎理論でもある、という説明です。
表現そのものではなく、媒体そのものを
「本に載った漫画」というメディアについて論じているのだから、メディア論。
「表現されたもの/表現そのもの」を論じるのが夏目房之介・伊藤剛ラインの「表現論」だとすれば、ぼくは「表現」ではなく、その表現が行われる「媒体(メディウム)」を論じていることになるでしょう。
そして、その上で、個々の「表現」を見ていく……という順番を取るものです。
だからこれは、「漫画のメディア論」なのと同時に、「メディア論の中の漫画論」でもあると思います。
(ただ、一般書風に書いているし、アプローチも我流なので、従来からあるメディア・スタディーズの方法論に沿っているわけでもないのですが。)
ここで「そもそも表現論ってなんぞや」という人のためにちょっと補足説明を。
「表現論」の「表現」は、ぼくの解釈だと「表現されたもの/表現そのもの」という無人格な対象を論じるものなのですが、この言葉はどうしても「表現する人=作者」に結びついてしまいがちです。
そして夏目房之介さんという論者の場合、ご本人の興味自体が「作られる過程」に向けられることが多かったこともあって、「表現される方法(作り方)」に引っ張られやすいニュアンスを抱えています。
夏目さんが、自らの表現論とぼくの論を対比させたいと思った時に「読者視点の」と冠したこと自体が、「作り方からアプローチする表現論」を意識していたことの表れと言えるかもしれません。
しかしメディア論として漫画を扱うのは、「どういう表現か」ではなく、「どんな“かたち”か」というシンプルな問題です。
それは言ってみれば「読者視点」ですらなく、「メディア視点」だったり「人間視点」だったりする研究になるでしょう。
「作者も読者も同じ人間だから、その人間の視点でメディアを捉える」というのは、この本の本質的なテーマのひとつでもあります。
基礎研究の大事さ
シンプルな問題である、ということに繋がりますが、ぼくがやっていることは「基礎研究」なのだ、というのは日頃から良く強調していることです。
だから一昨年、伊藤剛さんと初めて立ち話ができた時に
「日本の漫画論は、映画理論に比べてあまりにも未成熟だから、映画理論と同じくらいのレベルに引き上げたいと思ってますよ」
……とタンカを切ったのですが、伊藤剛さんは腹を立てるでも笑うでもなく「うん、ぜんぜん未熟だよ。映画論に比べたら幼稚だよ」とスパッと返してくれたものです。
なるほど、そこらへんは心配しなくても、共通認識なんだな。
と、そう納得して、「そうか、じゃあ、基礎研究、しかも映画理論と同列に並べられるような“漫画理論”をやるぞ」というのが、『漫画をめくる冒険』を作るテーマのひとつになりました。
その成果がいかなるものだったかは自分で判断しきれないものですが、映画史とメディア論を教えておられる鷲谷花さんによる評価が励みになっている所です。
http://d.hatena.ne.jp/hana53/20080805/1217927706
(従来の漫画論は)「手塚治虫は実は《映画的技法》を使用していない」「いややっぱり《映画的技法》を最初にマンガに導入したのは手塚治虫だ」といった、実り少ない議論へと横滑りしがちであった……、というのが、間違っているかもしれないけれど、現時点での個人的な認識です。
そのあたりのフラストレーションをぶっちぎって、マンガにおける「同一化」(ここではむしろ「同化」といったほうが適切か)と「視点」に関する議論を、まさにジェット噴射で遥か彼方へと推し進めた一冊がこの『漫画をめくる冒険』ではないかと思います。しかも、あくまでも原稿に描かれ紙に印刷された《画面》と《書籍》という「具体的なモノ」に即した精緻かつ明快な分析を通じて、現代マンガが、キャラクターの知覚や情動、身体感覚などを、読者に共有させるための《技法》を、いわゆる「同一化技法」にとどまらず、きわめて複雑で豊かなヴァリエーションをもつものとして展開させており、また、読者のキャラクターに対する《同化》と《異化》のプロセスもまた複雑な紆余曲折を辿ることを、強い説得力をもって明らかにしています。そうした《主観》と《客観》、《同化》と《異化》の複雑かつ巧妙な操作が、マンガを読む体験の活き活きとした快楽を支えていることを、まず論の書き手当人が「読み、感じ、発見し、理解する」プロセスを通じて読者に体得させてゆく―、というわけで、これだけ「読んで楽しい」視覚表現論はなかなかないと思います。
「映画」と「マンガ」の間には、もちろん巨大な差異が横たわっていますが、「人物の顔や身体を、さまざまなサイズやアングルで枠取って観客に提示することで、その人物が物語世界において体験している知覚や情動、身体感覚を、多様かつ複雑なレベルで観客に共有させてゆく」ことに強力なポテンシャルをもつ芸術もしくはエンターテイメントのジャンルであるという点においては相通じる部分もあり、「マンガ論」から改めて「映画における視点・同一化・同化」の問題を考えてみるにあたっても、大きな刺激を受けました。
どんな研究でも「基礎研究」と「応用研究(商業研究)」のふたつに別れるのですが、間違いなく大事なのは「基礎研究」をしっかりと築き上げることです。
逆に言えば、優れた基礎研究は、商業研究、応用研究の幅を広げるものだとも言えるでしょう。
ちなみに、「メディア論」だからといって「表現は扱わない」と宣言しない(むしろ積極的に表現を論じてもいる)のと同様、『漫画をめくる冒険』が応用研究に触れていないわけでもありません。
むしろ、基礎理論が応用理論になりかける「境目」を書いた部分が多い、というのが正確かもしれません。
まとめ
もっとも、以上は全てぼくがそう考えているというだけの話であって、実際の判断は周辺のみなさんに委ねるしかありません。
下巻がどのように「根を下ろして」いくのかを、待つばかりですね。
あ、そうそう、大切なことですが、普通に『漫画をめくる冒険』を読む場合は、研究的な位置付けなんて気にするべきではないですね。
おそらく、読む人によって色んな見え方をする本ではないか、と思いますから。
漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで― 上巻・視点 泉 信行 ピアノ・ファイア・パブリッシング 2008-03-14 | 漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで― 下巻・The Book 泉 信行 ピアノ・ファイア・パブリッシング 2009-05-10 |