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ユリイカ「マンガ批評の新展開」特集号について、泉信行から〜その2〜

 間が空いてしまいましたが、ユリイカの「マンガ批評の新展開」特集への反応の二回目です。

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自分の記事

 ここで語られているのは、前半の「キャラ/キャラクター」論と、後半の「スクラン3月のライオン」論のふたつに分けられます。
 後半部分は、鼎談と同じく『漫画をめくる冒険』の副読本的な記事になっていて、(どちらが先でも読めるように気をつけていますが)「併せてお読みください」的な内容として受け取っていただきたいと思います。


 前半部分では、(商業媒体ではあまり伊藤剛の論考に触れてこなかった)自分なりの「テヅカイズ再考」になっていて、『テヅカ・イズ・デッド』の「キャラ/キャラクター」論を読んだ読者がなんとなくモヤモヤ思うであろうポイントについて見解を示そうとした、という執筆意図があります。
 ピアノ・ファイアに書いた記事の中で素案になっているのはこれですね。

斎藤環さんの記事(『よつばと!』論)

 『漫画をめくる冒険』の〔第二章 描き手の意識、絵の意識、読み手の意識〕の概念を一部援用して書かれている記事なのですが、あの概念(描き手である漫画家が意識する「キャラの感情の演技」のこと)っていうのは理論的な下地としてスコット・マクラウドの「仮面効果」とアントニオ・ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」「身体マップ仮説」があって、斎藤環さんはその下地からちょっと離れた所に論を伸ばしている観がありました。

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 斎藤環さんは「ある種の感情は人間には演ずることができない」、と漫画の絵の感情表現に「限界」を設定しますが、マクラウドやダマシオの仮説を使えば、あずまきよひこの「記号的な表情」は充分に「描き手が演技して表現したもの」として説明できる、とぼくは考えています。まさに松井優征「犯人がアレな状態の時の顔に関してはどんな表情で描いてるんだろう」と思ってしまう部分の問題で、それは具体的に言えば、未開民族の文化における「メイク」や「刺青」や「仮面」そのものを想像してみると良いと思います。
 普通の人間にはありえない貌(かお)をしたメイクやお面が、それを被った者や眺める者の意識や感情……つまり身体イメージに与える影響を考えてみれば、それがそのまま漫画の「絵」にも当てはまることが解ると思います。
 発達心理学でも「人間の子供は、人間の顔の絵よりも動物の顔の絵の方が自己投影しやすい」という法則が知られていますし、人間がリアルに作れない表情だからといって、漫画の描き手や読み手が「心の中(=身体マップ)でイメージできない」表情であるとは限らない、ということです。


 といっても、その上で「描き手の意識」から乖離した「記号的な表情の描き方」というのがあるんじゃないかという斎藤環さんの指摘は鋭くて、それは「描き手が演技の意識を込めずに描くとハリボテっぽくなる」などの話からも広げられることだと思います。
 あずまきよひこの絵が「記号的」で、ともすればハリボテっぽい表情だ、っていうのはぼくも思うことですし、そこから伸ばすことのできる見方は色々出てくると思います。


 ところで、精神分析用語の「転移」は、マクラウドの「仮面効果」「なるための絵」と言葉が違うだけで、理論的には似たようなことを指しているのかもしれません。だとすると斎藤環さんの言う「メタ感情」というものの捉え方も変わってきそうですね。「メディアの等式」や「異化効果(ディファミリアライゼーション)」などの概念も組み合わせて考えてみると、これも色々出てきそうな話です。


 あと、「よつば=キャラ、ディフォルメ」「よつば以外=キャラクター、リアル」という二分法的な対置はちょっと疑問。よつば以外も全然ディフォルメの対象とされている(=リアルじゃない)わけで、むしろ、よつばを非人間的に描くことによって「よつば以外のリアリティの無さ」を読者の目から逸らすような操作をしているかのように感じられるのが『よつばと!』という作品です。

吉田アミさんの記事(大島弓子須藤真澄論)

 「少女漫画の中で他者の存在(客観)が意識されるかどうか」という問題は、『クイック・ジャパン』に載ったばかりの、ウチの吉住渉論にも通じる問題かもしれません。


 「猫文学といえば内田百ケンの『ノラや』は読まれてました?」と吉田アミさんに直接訊いてみたんですが、無論読まれていたそうで、須藤真澄の表現に通じる小説としては捉えていたけど、結局ユリイカでは取り挙げなかったんだそうです。

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杉田俊介さんの記事(福満しげみつ論)

 こちらも斎藤環さんの記事と同じく『漫画をめくる冒険』における理論の抜粋から記事が進められていて、示唆される所が大きいです。
 でも「準主観ショット」という用語の表記に誤りが(「半主観ショット」になっている)。
 実はこの本の中で、伊藤剛さんも同じミスをされている(「半同一化技法」とかになってる)のですが、聞くところによると伊藤剛さんは自力で出版前に気付いていたそう。

東浩紀伊藤剛対談

 こないだコボカフェでさやわかさんと話してたんですが、宇野常寛さんと泉信行はポジションとして対比的な存在だよなーと自分では思っていたり。「対岸」すぎるのか、同列に論じられたりマッピングされることも無いのですけど。


 東さんは「ラノベと文学を区別するな」という凄くまっとうなことを言っているけど、文学とラノベを区別せずにガッチリ語ろうとしているのが『世界の電波男』における本田透さんのスタンスで、でも本田さんの書く本はどうしても「学者からは相手にされない」「若いオタクからも興味を持たれにくい」という「奇書の類」なのが惜しいものです。しかし奇書は奇書として多くの人に読まれ、評価され参照されるべきだと思います。
 そういう「参考になる指摘も、参考にしちゃいけない理屈も両方ある怪しい本」を読む時こそ、咀嚼する読み手側の教養が試されると言えると思うんですが、どうなんでしょうね。*1
 ……と、ユリイカの感想から脱線してまで推薦したくなるくらい『世界の電波男』は面白くて良い本なのでした。

師茂樹さんの記事

 師茂樹さんのテヅカ・イズ・デッド再考が、泉信行の「キャラ/キャラクター」論と内容的に被っていて、師さんの方が鋭く踏み込んでいる。


 「前キャラクター態」とも呼ばれる「キャラ」概念に対して、「描かれた後から成立するからといって、じゃあプロトじゃないのかというと、そうでもなくて、仮想的なプロトとして見出されるからプロトなのだろう」というのは正しい見方でしょうね。
 事後的に作られる創世説話とか、それこそ「(トンデモ学説としての)起源論」もそうで、元々人間の脳って「因果関係の逆転した起源(プロト)」を誤認しやすいように出来てるもんですからね。


 で、この記事の元となっているエントリがこちらのよう。二ヶ月前にアイディアは既にあったんですね。

野田謙介さんの記事

 「デクパージュ」「ミ・ザン・パージュ」という、ぼくも初耳の対概念は一考の価値有り、というかこれはウチも考えたことのある対概念で、フランスでは既に用語のレベルで分けて論じられていたんだなぁというのが驚きでした。

東浩紀さんの記事

 ふむ、なるほど。「物語主義」のオルタナティブなやり方としてデータベースというものがあってもいいんじゃないかという東さんのニュートラルな主張は、これでやっと腑に落ちて理解できた気がします。
 しかし「データベース的なメディア」というものが具体的にどういうものでどういう将来があるのかは良く解ってないし、それが本当に「いいもの」なのかは疑問がつきまといます。まぁ糸口は掴めたので、これからは少し真面目に考えてみたいと思います。



 以上です。「その3」で、この号から派生した話題のアフターフォロー的なことを書こうかと思います。

*1:つまり、「自分の頭でちゃんと考えることのできる読者」を前提にして書かれている本なので、「書かれていることを多角的に解体する力」と「自分の持論を再構成する力」を強く求められる