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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

小林尽に関する「演繹/帰納」議論の決着(のようなもの)

 小林尽の反復対比手法については、「はじめに」の「リスト制作の切っ掛け」でも議論していたように、通りすがり氏(ぼんやりさん)による小林尽を構成オタクとして仮定する見方」と、ぼくの「本人の言質が取れるまで判断保留する見方」とで分かれていました。


 そこで最近出た『月刊ぱふ』の小林尽インタビューから推測できる創作スタイルから考えてみれば、この議論の結論はほぼ出たと言って良いのかもしれません。

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――タイムトリップものは物語の帰結点が特に気になるジャンルですが、連載開始前のプロットではどのくらい考えていましたか?
小林 それほどきっちり決めてはいませんが、だいたいこんな感じで締めようというのはあります。ただ僕の場合、話やエピソードは編集さんとの打ち合わせや描いていく中でできていくという感じで、方向性も変化することがあるんです。この作品についても、最初は戦時中の出来事を拾っていく話にしていこうと思っていたのが、だんだんと戦争の部分が主軸になっていって、今はそこを基点に考えてキャラクターに役割を与えるようになりました。

  • 「この作品についても」と断りを入れていることからすると、スクランこそが「打ち合わせや描いていく中でできていく」作り方をしているということなのだろう

――マスターと同じく英雄も第1話から出てきたキャラクターですが、あらしとの関係やその後の展開についても考えての最初の登場だったのですか?
小林 いえ、はっきり考えてはいませんでした。描きながら、これは辻褄が合わないでしょうというところが出てきたら回避しようと思っていました(笑)。(中略)ほとんどはぶっつけ本番。

  • 逆に言えば「描いている内に生じた辻褄」はなるべく守る、ということを言っている


 これは要するに、創作に際して「演繹」と「帰納」のどちらを重点的に使うか? という問題でして、このインタビューを読む限り小林尽は、緻密に練ったプロットに基づいて描き進める「帰納寄りの作家」ではないことが示唆されています。
 おおまかな結末のイメージだけを用意しておいて、その結末を目指そうとする「演繹寄りの作家」なのでしょう。


 ミステリ者であり、自らも構成オタを自称するぼんやりさんは主に「帰納」を使ってスクランを読んでいる感じですが、ぼくはどちらかといえば「演繹」をメインにして読む読者です。
 なので、小林尽が「演繹寄りの作家」だと判明した後でも、実はスクランに対する「読み方」はあんまり変わらなかったりするんですね。
 スクランのストーリーは、帰納法よりもむしろ、演繹法で作られているとみなした方がしっくりくる所があるくらいですから。

演繹法」と相性の良い反復対比

 というのも、反復対比という手法をフル活用することを考えた場合、実は構成オタ的な「帰納法」より、長期連載に則った「演繹法」の方がその特性を活かしやすいと考えられるからです。
 反復対比手法というのは、トランプゲームの「スピード」のような要領で、とにかく「場と合うカード」をポンポンと出し続けていくことでドラマを作るようなものだと喩えられる手法じゃないでしょうか。

(ルール的には、「スートが同じで数が近いカード」と「数が近くてスートが違うカード」を場に積んでいくような感覚。前者が「反復」で、後者が「対比」。)


 このトランプゲームの感覚で創作することの利点は、おおまかにイメージしておいた結末へと導きやすい「コントロールのしやすさ」と、そのゲーム状況が自然に生んでくれる「マクロな構造の作りやすさ」でしょう。


 コントロールしやすいというのは、両天秤に載せるオモリのバランスを作り出すシーソーゲームである、という本質があるおかげですね。
 例えば「最後にAが負けそう」という暗示を生む反復対比を思わず重ねすぎてしまったら、その都度「最後にAが勝つ」という暗示を作りだしてバランスを取り返せば済むわけです。


 マクロな構造が作りやすいというのは、反復と対比を繰り返すことで幅広い人間関係や因縁、あるいは世界観や価値観(テーマ性)が出来上がっていくという、自動生成アルゴリズムのような面白さがあることを意味します。
 自動生成による世界観構築は不可逆でリセットの効かないリスクも抱えていますが、同時にシーソーゲームでもあるので、オモリの釣り合いさえ守れば、おおむね意図通りのストーリーを描くことができます(そこはセンスも必要ですが)。


 それに小林尽本人も言うように、方向性がだんだん変化していく面白さもあるでしょう。しかしそれが「おおまかにイメージしておいた結末」まで裏切るものかどうかは限らなくて、意識さえしていれば作者がコントロールできる範囲のものでしょう。

自然に生まれる「辻褄」

 この自動生成アルゴリズム、つまり「演繹法による反復対比」の手法を徹底していけば、いずれ「守らなければならない辻褄」が生まれてきます。そして、それが結末を左右するファクターとなります。


 我々読者からすると、その「辻褄」の蓄積を観測していくことが「読む」ということなのですが、それは作者が帰納法で描いていようが、演繹法で描いていようが大差の無い問題だったりします。
 もし帰納法で描いているなら「どう帰納させるために辻褄を構築していたか」を読むことになり、逆に演繹法で描いているのなら「どう演繹させて辻褄を蓄積してきたか」を読むことになるわけですが、どちらにせよ結果的に読み取らなければいけない「辻褄」は同一だからです。


(そして、「作者がその辻褄を守るかどうかは保証できない」という可能性もまた、帰納法だろうが演繹法だろうがどちらでも同じなので、やはり大差無いわけです。)


 で、結論としては「小林尽演繹法によって結末に至ろうとしている」という解釈でいいと思います。
 そして、この結論に影響されて「自分が今までやってきたスクランの読み方」が変わるようなことは、特に無いんですね。
 結局の所、ウチは「現在の蓄積とバランスの取れる次のカード」や、「今までと辻褄が合う結末」や、「作者がイメージしてそうな結末」の予想しかしていないからです(つまり、小林尽帰納寄りだろうと演繹寄りだろうとどちらにも対応できる読み方しかしていなかった、ということ)。
 で、スクランというものは連載初期から特に軸がブレるような所も見せていない*1ので、おそらく作者にとってもおおよそイメージ通りの結末に向かっている、と理解していいような気がします。

 ちなみに、「[http://d.hatena.ne.jp/liquid-fire/20071230#trigger:title=リスト制作の切っ掛け]」でぼんやりさん側がしていた予想(【クライマックスの〜】と書いて消してある部分)は外れる可能性が高まってきた、と見ています。まだホント微妙なラインですけどね。

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*1:ブレそうになると軌道修正が入っている。奈良を登場させてすぐにフェードアウトさせたあたりとか、沢近が大人しくなるまでの過程とか