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「読者に気付かれないような仕掛け」を作品に入れることの価値は?

 『School Rumble』における反復・対比・暗示のリストを更新しました。
 順番通りの追加ではないのですが、KC16巻(最新刊)〜コミックス未収録分をアップしてあります。
(後半になってからの展開の方が「反復構造」の濃密さを実感しやすいと思うので、新しい方から出すようにしました。)

 ところでこのリストを作成する前に当然考えたことは、


「これは、偶然にそういう構造を読み取っているだけなのか?」
「それとも、作者が意図してやっていることなのか?」


ということでした。
 しかし実際に読み込んでいくと、まずその「あまりにも多い実例」という実証が表れてきますから、「ここまで数が多いとなると、偶然では片付けられないかもしれない」と思い始めるようになりました(その実例がどのくらいの量なのかは、リストを見てもらって確かめてもらうとして)。


 そして自分が「これはもう意図的にやっているとしか考えられないだろう」と思うようになったのは、♯216と♯219がリンクされている(ように見える)部分を発見してからでした。

♯216 BLACK RAIN(ブラック・レイン

  • 八雲が播磨を探して、公園で会えた、というシチュエーションは、後に沢近と美琴が会話で反復する
  • 「近くの公園とかでいいのよね」「会いに来てくれたって気持ちがうれしいよな」という少々唐突な会話が、この回とのリンクのヒントになっている?
  • 「何かあった?」「いやぁドラマドラマ!!」という、取って付けたような説明も「播磨がドラマの練習をしていたこと」にリンクさせているのだと思われる

 この「ドラマドラマ!!」という会話は、本当に取って付けたというか、いかにも白々しくて脈絡の無い、不要な部分じゃないだろうか?
 一度そう思うと、「どこでどんな暗示を仕掛けてられているのか、全く油断ができない」スクランという漫画の全体像が一瞬にしてひらけて見えた気がしました。


 しかし次に思うのは、「どうして作者は、ここまで気付かれにくいことをやり続けているのだろう」ということでした。
 これは反復構造に限らず、スクラン全体の描かれ方……、突き詰めれば「説明の少なさ」にも言える話です。
 物語三昧ペトロニウスさんも、ぼくとオフ会でスクランの話をする度に小林尽はなんでここまで深い読解力を読者に要求するんですか?」と呆然としていたのが印象に残っています……。


 ええと、これは個人的なポリシーの話なのですが、


週刊少年誌に連載する漫画は、第一に「わかりやすく」なければならない


……という持論があります。「大衆的なわかりやすさ」の中から名作を目指すのが、大衆誌における漫画の在り方である、という考え方です。
 その点から鑑みて、スクランのストイックすぎる「説明の少なさ」は、ある意味「少年誌にあるまじきもの」と考えることもできます(あくまでぼくの価値観に照らせば、ですけど)。


 なのに感慨深いのは、『School Rumble』という作品が、マガジンやマガスペの看板連載であり、アニメ化もされ、単行本も常に売り上げランキングの上位に入り、「高いポピュラリティ」を持った作品(商品)として成り立っている、という事実です。
 これは何を意味するのか?


 この、異様なまでの「気付かれにくいことをやり続けるコダワリ」と、「高いポピュラリティ」を両立させているのは何なのか?
 これは、マーケティングや作品論などを考える上で非常に興味深い問題になっていて、ペトロニウスさんも含め、漫研のGiGiさんとも良く議論した問題だったりします。


 一定以上の「深さ」を持つ物語というものは、どうしてもポピュラリティを下げてしまう、というジレンマを持ちます。
 つまり、「自発的に、積極的に楽しもうとする姿勢や努力」を読者に求めなければならない(強いなければならない)からですね。
 本当に深くて「凄いもの」は、誰でも簡単に見れるようなものじゃないからこそ「本当に凄い」のだとも言えます。
 それが普通、なのですが、オフ会でペトロニウスさんの口から良く出てくるのは、「深さがあって、商業的にも成功するのが最高じゃないか?」という言葉だったりします。
 それは一種の理想論でもあるのですが、しかし興味の尽きない問いかけでもあるのは、確かです。 


 スクランの話に戻すと、おそらく作者(小林尽)の中では「別に気付かれなくても構わない」という遊び心でやっている部分と、「誰かには気付いてほしい」という欲の部分がせめぎあっているだろうと思います。
 クリエイターならば、間違い無くどちらの心理も持っている筈で、「気付いてほしい」と同時に「自分から言うのはカッコ悪い」と思ってしまう部分だとも思います(特に小林尽は、根っこがシャイな性格のようですし)。



『School Rumble』Vol.11より)


 例えば、この背中に書かれた「indicate」という英単語には、「合図する」「示唆する」「暗示する」などの意味があります。もしかしたらこんな所で「実はこの漫画には暗示が込められているんですよ」と、「気付く人にだけ気付いてほしい」メッセージを送っているのかもしれません(!)。もし本当にそうだとしたら、信じがたいほどの「気付きにくいメッセージ」なのですが……。


 結論の代わりに、最後に思うことをひとつ、付け加えておきます。
 それは、こうした「誰も気付かないような遊びを仕掛けること」が、決して作品のポピュラリティを下げるだけではないかもしれない、ということです。
 「神は細部に宿る」という言葉もありますが、「本当に凄いものは誰でも簡単に見れるようなものじゃない」という一方で、そういった「奥の方の気付かれにくい何か」は、「その存在にすら気付かないような人達」からしても「外の方から見て面白そうに感じる」オーラめいたものを、作品の表面に与えているのかもしれません。
 そしてそういった「奥の方の何か」を隠し持った作品こそが、「高いポピュラリティ」と「深さ」を両立させるのだとしたら。
 それは結局の所、「奥の方を見れないまま終わる人達」を大量に生み出しながら読み捨てられていくのと同時に、ごく少数の割合の「その奥の方にまで届く人達」だけから理解されるということなのですが――。