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週刊連載と単行本の読みやすさの差/今週のスクラン(♯209)から

 個人的にずっと前から、「週刊誌で読むペース」というのと「単行本で読むペース」というのの比較を考えています。

週刊連載は、「潜在情報」と「顕在情報」を組み合わせて読むもの

 スクラン……というか小林尽の個性だと思いますが、「前振り無しにコロッと視点を変えて描く」のが特徴で、今回もそういう描き方になっています。いつも「ああ、スクランらしいな」と感じる部分です。


 具体的には、前回の時点で「読者に与えた」潜在的な情報が、その続きである筈の今回では描かれない――いわば顕在情報として表面化しないんですね。

潜在情報:俗っぽく言うと「思わせぶりな暗示」というもの


顕在情報:潜在情報とは逆に、はっきり絵や言葉で描かれているもの

 その為、前回のヒキ(究極の選択…!?)で読者に暗示させた、


「選択……って、天満と播磨?(どっちを選ぶかは大体予想できるけど)」


とか、


「ひょっとして、沢近は播磨のこと(=恋愛感情)が割とどうでも良くなってる?」


とか、


「あ、沢近は4巻の頃の美琴*1と同じことを繰り返してるんだな」


……といったフックの数々が、完全に「潜った」形になっています。沢近は天満をほったらかして播磨との絡みに終始し、天満のことを意識する描写が*2無い。

 つまり、読者の「よし、次はこの潜在情報を前提にして読むぞ!」という姿勢を、殆どスカした形で描かれてるんですね。言い方を変えると「作者が、前回の暗示を拾わなかった」ということにもなります。ここで(先週のヒキが印象に残っている)読者は、少し「あれ?」と思う筈です。
 しかしそれは「今週の顕在情報」に限った話であって、次週、次々週になれば「拾われる」可能性が充分あります。スクランは、今までもそういうパターンを繰り返してますから、読み慣れた読者なら「来週」や「来々週」に期待しながら読むことができるでしょう。
 しかし、いつか「拾われる」まで、その暗示は潜在情報として「潜った」ままになるわけです。


 この「潜った」潜在情報を、「二週間、三週間先まで」連続して覚えてられるか?


 「描かれてないからといって、無かったことになるわけじゃない」という見方(物語やキャラへの感情移入)を保てるかどうか?


……というのが、雑誌でスクランに「ついてける人」と「ついてけない人」を二分している、という印象を持っています。
 普通、週刊誌の漫画は(立ち読みなり、読み捨てなりで)一本ずつ読まれ、以前の話を読み返したりはしませんから、

うろ覚えのストーリー全体+前回の内容の記憶+今回の内容

……という情報の組み合わせ(前者ふたつまでが潜在情報)で、ストーリーの流れが理解されていると思います。


 それに対して、スクランのように「潜る」期間が長い連載の場合は、

うろ覚えのストーリー全体+前々回の内容の記憶+前回の内容の記憶+今回の内容

……こういう風に「二,三週間前の話の内容」まで考慮しながら「今回」を読む必要が出てきます。
 しかし良く考えてみれば、スクランに描かれた「情報」が一回や二回くらい「潜る」のは自然なことなんですよね。スクランは基本的に9頁ずつ掲載されますから、単純に「2話分を足して、普通ならようやく一話分*3」だからです。

 スクランは時々「ショートコミック」のカテゴリに納まりきらない心理劇に突入することがあって、その時は確実に、この「9頁」という頁制限が足枷になります。
 極端な喩え方をすると、18頁の漫画の前半9ページだけを先に読んで、その9ページ分をゴミ箱に捨てて、一週間経ってから残り9ページを読む(=前半は読み返すことができない)、みたいな読み方をしなきゃいけないわけですね、立ち読み読者の場合。

何故「週刊少女誌」がありえないのか

 心理描写を重視した漫画を描こうとした場合、特に「一回あたりに必要な頁数」は増えていきます。
 現在の日本には「週刊少女誌」が存在しませんが*4、週刊少女誌が廃れた理由として「心理描写に重きを置くならば、週刊連載の頁数では短すぎる」という要素が良く指摘されます。
 そういう月刊連載の少女漫画ですら、ストーリーが複雑になっていく程「月刊連載の頁数でも短すぎる」ということになって、読者に「これなら単行本で読みたい」と思わせることがしばしばです。更に密度の濃い作品になると、「完結してから一気に読みたい」と読者に言わせるようになってきます。
 個人的には『彼氏彼女の事情』の終盤がそうで、あれをぼくは、「完結を待ってから」クライマックスを一気読みしました。リアルタイムに読んだ人から当時の話を聞くと、やっぱり「終わるまで辛かった」*5という答えが良く返ってきます。大抵がそういう調子ですから、少女漫画の終盤を「週刊ペースで読みたい」なんて考える人は、まぁあんまり居ないでしょう、と考えられるわけです。


 スクランでも、ストーリーが心理劇に突入した際、20頁に増量された例が4巻にあって、その判断は功を奏していたと思います。

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今週のスクランの話に戻すと

 今週のエピソードでは、「究極の選択…?」という視点を軸にする読み方が「潜って」いるだけでなく、ひとつの回に天満や八雲の視点が折り込まれてもいますから、たった9頁の中にいくつもの視点が含まれていることになります。オチに至っては播磨視点でシメられていて、目まぐるしいくらいです。
 「主観視点の変更が多い」というのも、週刊で読む読者の理解を妨げる要素の一つになりえます。しかしこの、「複眼的に描かれる」作風こそがスクランの持ち味だったりもするわけです。


 特に天満の行動原理は、八雲の幼少期を回想したエピソード(14巻収録)を想起しないと十全に理解できないものですが、これを小林尽は言葉で説明せず、7ページ目の「絵だけ」で暗示させています。*6これは非常に巧い。

 ……巧い、とは言っても、過去の「八雲に怒られた天満が、ボロボロになってまで謝罪しようとした」姿が、八雲の目を通して、現在の「沢近に怒られた天満が、また愚直に謝罪しようとしている」姿と重ねられているのだ、という所まで思い至れるか……? というのも、「読者が潜在情報をどのくらい保持して読んでいるか?」という問題に関わってきます。

 ちなみに八雲の幼少期の話は、話数だと35話分の隔たりがあって、単行本でざっと2冊分遡った所から「潜在情報」を引っ張り出してることになりますね。


 そういう作風の漫画なら、月刊誌であるマガスペに連載を絞るか、逆に月刊の方を削って週刊を増ページした方が良さそうなものですが、まぁ色々な大人の事情もあるのでしょう、「週刊9頁+月刊8頁」というショート形式が今では定着しています。
 ……で、そろそろ友達も「やっぱ単行本でガッと読み直したくなりますね」と言い始めてきたという(笑)。
 いや、本当にややこしいことしてる漫画です、スクランは。

ここまでのまとめ

 問題は、そういう「週刊ペースでの読みにくさ」と「作品自体の評価」を混同する読者が出てくる、という現象でしょう。
 週刊誌に限らず、既に完結した長編漫画に対して、「いや〜、あの漫画、終盤はタルかったよな」と言うファン(元・立ち読み派)が居る反面、後追いで単行本を一気に読んだファンは「え、そう? ラストまで気にならなかったけど?」と思い、単行本派だったファンは立ち読み派に対して「一気に読み返してみたら印象変わると思うよ」と反論するかもしれません。


 「ストーリーが終盤に近付けば近付くほど、エピソードを短く分節した掲載が不利に働く」というのは、漫画連載におけるセオリーの一つだと言えます。
 勿論例外もありますが、「週刊ペースでの終盤展開に向いた作風」と「向かない作風」の違いを考えてみるのも面白い筈です。さて、前者と後者の例を比べてみると……、

*1:「友達との約束」と「好きな男」を天秤にかけて男を選ぶ話

*2:どういう決断をして現在に至ったのか、という心理も含めて

*3:マガジンの他の漫画は18頁がデフォルト

*4:『週刊少女フレンド』や『週刊マーガレット』など、週刊誌が四誌存在していた時期はあった

*5:ストーリーが暗くて辛い、といったニュアンスではなく

*6:フラッシュバック的な回想シーンも無し