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『カンフーハッスル』の感想、続き

 ふと気が付くと引用された先が知らぬ間に更に引用されていた、という事態になっていたので対応させていただきます。
 トラックバックするのは初めまして。

手段/目的

 チャウ・シンチーの前作「少林サッカー」では、主人公の目的はあくまで少林拳の復興であって、サッカーはそのための手段に過ぎませんでした。そしてエピローグ、人々が少林拳の心技体を学ぶことによって世界の姿は大きく変貌し、そして主人公たちは軽やかに次の目標(少林ボウリング!)へと向かっていきます。この点において僕は「カンフー・ハッスル」と「少林サッカー」とに同じものを見ます。

 flurryさんはこう述べておられますが、「手段/目的」というジャーゴンをあえて*1用いるならば、ぼくは『少林サッカー』を「手段の目的化を描いた映画」だと見なしています。
 『VERSUS』の男達が戦いの為に戦い明け暮れ、『HELLSING』のモンティナ・マックスが戦争の為に戦争するようなノリと同じ空気が『少林サッカー』にはあり、その顛倒した「手段の目的化」の突き抜けっぷりがあるからこそ、これらの物語は面白いし、バカ笑いして楽しめるものになっている。
 『少林サッカー』におけるサッカーは確かに手段ですが、これは実際の所フェイクだと考えられるわけで、カンフーというのも目的ではなく手段の意味合いが強い。カンフー映画にとってのカンフーは常に「なかば目的化した手段」として重宝されてきたという背景もあります。
 『少林サッカー』のラストにおいて、手段でしかなかった筈のカンフーは正当化されますが、チャウ・シンチーの大目的である「カンフーの素晴らしさ(シンチーにとってはブルース・リー思想のこと)を世界に伝えたい!」というメッセージまでには触れられていません。この大目的が結実するのはやはり次回作『カンフーハッスル』においてです。
 『カンフーハッスル』におけるカンフーは手段化した手段として描かれ、彼のメッセージは目的化した目的として描かれます。
 整理してみると、

  1. 少林サッカー:サッカーを手段として、カンフーという手段を正当化するのが目的(→『カンフーハッスル』への布石)
  2. カンフーハッスル:カンフーを手段として、ブルース・リー思想を伝えるのが目的

という、二段組み、三段組みの発展を見つけることもできるでしょう。
 こういう、シンチーの映画的なスケールアップを見逃し、「同じものを見ます」で終わらせるのはちょっと勿体ないのになぁと思うのですが、いかがでしょうか。
 構造自体は確かに似ていますね。でも、描かれていることは違っているように見えるのです。

観客を物語から解放する手続き

 余談ですが、伊藤さんが引用している「私信」ですが、あの文章には、

  • 「ヒーローにはなれない僕たちだけど、僕たちなりに(身の丈に合った)努力をすることで……」
  • 「結末でカンフーそのものを自己否定することによって、視聴者にフィクションから現実に戻るようにというメッセージを……」

とか、そんな感じのアタマの悪いお説教を呼び込みかねないような隙があって、そこが僕にはいささか気になるのです。

 まぁ、物語の読み方は大別して二種類あって、それを一緒くたに考えてしまう所からそのような隙が見えてくるのだとぼくは考えています。

  • 「物語と現実はまるっきり別」と考え、両者を混同した、フィクションを現実に持ち込むような行為を避け、慎む読み方
  • 「物語と現実は繋がっている」と考え、いかにフィクションから良い影響だけを現実にフィードバックさせるべきかを追求する読み方

 どちらも読み方としては間違っておらず、当然「二刀流」で読むのが望ましい所です(flurryさんの書き方だと、前者だけを尊重しているように見える)。
 これはどんな物語に対しても言えることで、前者の刀で全て切り落としてメッセージが何も残らない純エンタメ作品もあれば、前者の刀で軽く受け流した後、残りの中身を後者の刀で一刀両断して味わえる深い物語もあります。特に大人が読むファンタジーや童話、そして少年漫画や少女漫画はそういう読まれ方が求められるでしょう。
 そして、中身のメッセージを受け取るか受け取らないかは、完全に受け手の自由です。精神的な余裕や好き嫌いの都合に合わせて勝手に選べばよろしい。
 だから、『VERSUS』や『HELLSING』や『少林サッカー』は前者の刀を構えて読み、「あー面白かった」で終わらないといけない物語だということですね。
 逆に、『カンフーハッスル』は後者の刀で斬ることができるからこそ、面白い。
 そこにおいて「現実回帰のメッセージ」などはお説教でも何でもなく、物語を観客へとフィードバックさせる為に必要な「手続き」として求められるわけです。
 良く出来た映画は、観客を物語から解放する手続きをちゃんと踏んでいる場合が多いのですが、『カンフーハッスル』はその手続きで手を抜いていないからこそ「いい映画」なのだと思います。


 こういう話は割と永遠のテーマだったりしますね。「物語はエンターテイメントであるべきか、それともメッセージであるべきか?」という。両方あるのだ、としか言えないと思いますけどね。そこらへんを器用に捌いて味わえる読み手でありたいものです。

*1:何が手段であり目的なのかを厳密に峻別して断定するつもりはないので「あえて」