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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

図書館行ってきました

  • 舞城王太郎「パッキャラ魔道」(『群像』収録)
  • 佐藤友哉「大洪水の小さな家」(『新潮』収録)

 以前言及したことを引きずってか、どうもこのふたりの仕事はセットで読んでしまうようです。
 そこらへん私見(妄想とも言う)が入りまくった感想になると思いますがご了承下さい。


 まず佐藤の「大洪水の小さな家」なんですが、「フィクションにノめり込みすぎたり自分の世界観を優先しすぎたりするとこんな酷いオチが待っていますよ!」という、佐藤作品に通底しているテーマを少ない頁数に詰め込んだ掌編、と評していいでしょうか。
 まぁ短いせいであっさりしすぎと言えばあっさりしすぎだし、またいつものテーマかよと言えばいつものテーマなんですが、逆に佐藤友哉的な要素は揃ってるわけで、佐藤友哉短編集(もし出れば)の一本目やシメなんかには似つかわしい話なのでは、という印象。*1


 それで舞城の小説に移るわけですが、佐藤が「フィクションにノめり込みすぎることのデメリット」を延々描き続けるのに対して舞城は「フィクションは現実の読者の生活に良い影響を与えることはできるか?」ということを延々と書き続けているように見えます(本人がそれを信じてるか信じてないかはともかく、舞城の小説は、「物語の結末」と「読者」を地続きにさせようとする努力の跡が確かにあると思う)。
 「パッキャラ魔道」も多分そういう試みを含んだ作品で、「小説に書かれていることは魅力的だけれど、現実はもっと陳腐で薄っぺらいものだから、魅力的な小説は現実の役に立たない。だからこの短編には陳腐で薄っぺらい話を書くよ!」とか、そういう風に、(ぼくは)読める。
 フィクションのネガティブな影響力を強調する佐藤と、ポジティブな影響力を追求し続ける舞城。やはりセットで読んで想像を脹らました方が、受け取れるものは大きいなあと思うのでした。
 

  • 借りたの
    1. 内田樹『寝ながら学べる構造主義
    2. 高岡英夫『からだには希望がある』
    3. 任継愈『老子訳注』

*1:作品のデキについて余談:文体は変化球的な描写に頼りすぎていて、そういうのは良くない気がする