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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

あるプロジェクトにおける「代案」のアンフェア

2015年1月中旬

 最近、思うにですね。『代案を出せ』、という言葉には納得がしにくい……いや、フェアではないと感じるんです。


「なんでまた。そりゃあ、なんだか言い返しにくい言葉ではあるけど」


 そこですよ。言い返しにくいと感じるのはなぜか、と。


「ハードルの高い要求ではあるからか? ぼくなら、できれば相手の手の内を全て知った上で代案を用意したいところだ。しかし、あるプロジェクトを批判したい側というのはそんな立場では当然ないだろう。だから代案を要求するなら、情報の公開が必要であり、情報を抱え込むのはフェアではない、というところかな?」


 いや、その程度は両者納得済みで進められるべきだし、問題はその不平等ではない。情報が足りないとしても、代案はいくらでも考えることができます。色々なパターンをね。しかし、あたかも、代案は一個だけでも出せば話を聞いてやらなくもないぞ、という態度を取られるわけです。これは納得がいかない。


「一個じゃダメですか」


 ダメですね。それには理由があって、そもそも代案を必要としている、批判が殺到しているようなプロジェクトになっている時点で、先方さんはあらゆる代案を否定してきているはずなんです。
 その上で、どうも批判に耳を傾ける様子がない。そういう時です。代案を出せ、と言ってくるのは。
 なぜ彼らが批判に耳を傾けないのか。そして、仮に代案を出されたとしても跳ね返す自信に満ちているのか。
 それは彼らがすでに、数々の代案を退けてきた先に立っているからです。それはそれは、もつれにもつれたプロジェクトだったかもしれない。議論は当然内部でも行われている。
 あれでもない、これでもない、と取捨選択を行い、かろうじて出た結論を出した上で作戦は進行している。


「そうかな? ダメな作戦だと思われているなら、きっと考えなしにやってるんだろう、戦略を練るブレーンもいないし、議論もしてない、熟慮が足りないのであろう、とそう思いそうなものだけど」


 たぶん逆なんです。おそらくは、代案を弾くことに慣れてしまった集団の方が厄介なんですよ。
 彼らはただプロジェクトに関わる情報をアーカイブしているだけでなく、議論の経験もしっかり蓄えている。つまり、結果的に残ったアイディアと、却下されるためのアイディア……つまり代案とを競わせてきた経験だ。
 しかし議論というものは、すればするほど何が正しいのかわからなくなっていく。というより、何が正しいのかわからなくなるような議論の仕方がある、ということですかね。


「しばしば聞く話だね」


 そうした議論の過程で何が育まれるか、ということですよ。
 代案には、却下する理由が必要になってくる。手持ちの情報をフルに動員して、代案をそれぞれ却下していかなければアイディアは競えない。あれこれ理由をつけてノーと言うわけです。


「その却下するための技術が、議論するほど磨かれていくということか」


 そうです。慣れっこになってしまうんですよ。それが、何が正しいのかわからなくなっていく原因でもあると思う。
 それでも結論は出さなければいけないし、なんとか納得できる答えをひとつ選び出す。それは、幾筋ものシミュレーションを乗り越えて残った結論だ。
 その背後には屍山血河の代案が転がっている。その経験もしっかり情報として蓄えるわけです。逆に、こういうことが自信に繋がる。


「正解がわからなくなってるのに、自信がつくのか?」


 そこが人間というもののコクがある部分だと思いますが……。で、だ。だから彼らにとって、代案何するものぞという心持ちになる。またか、なんですよ。知ってるわー、となる。
 その倒し方知ってるわ、却下してきたわと。


「うーん、それで話を聞かなくなる、というのはわからなくもないが、フェアでない、というのは何故なんだ。単に頑迷になるという話でもなさそうだが」


 あ、その話でしたね。ええと、つまり代案というものを個別に撃退すればいいものだと思われては困る……ということです。


「いや、撃退すればいいと思っているとはかぎらないだろう。本当に建設的な意見を求めているかもしれないから」


 そうかもしれません。でも、そこは重要ではないと思う。
 それまでの議論でも、代案の却下は手段であり、目的ではなかったはずですから。ただ、却下の仕方が上手くなってそれに慣れていくだけで。


「なるほど? 頭で考えていることと、行動パターンが乖離していくわけか。正解はわからないが自信はつく、という先程のパラドックスにも繋がるね」


 却下することに自信を持ち、その理由を探す技術を鍛えており、さらに情報も抱え込んでいる相手に、代案など恰好のエサと言うべきです。ただの的ですよ。まったく呵責を覚えずに撃ち落とすことができるだろう……。


 じゃあどうすればいいかというと、とにかく代案がひとつではダメだ。一言理由をつけるだけで退けることができる。
 その案にはこれが足りないとか、そこをこうすると別の問題が、とかね。それは情報を持つ側からすれば一定正しいんでしょう。
 だが、そもそも現行のアイディアにも問題がある以上、フェアではない。
 代案の中に問題を発見することで、自らの問題から目を背ける助けにしかならない。


 もっとそもそもを言えば、問題なんてあるのが当然だと知りながら、とても完璧とは言い難い現行のプロジェクトをしぶしぶ通し、批判を集めているのではないのか、と。
 だったら、最低でも2個以上は代案を用意させてほしい。ひとつは無難な案。もうひとつはリスクを覚悟した案だ。
 前者には無難すぎると言うだろうし、後者なら目に見えるリスクに噛み付くことができるだろう。だが、どちらがマシかは考えることができる。批判する側は最初から、どちらがよりマシなのかを問うているのだから。
 よく考えてみろ、もっと比べてみろと言ってるんだ。そこを一言の問題点で済まされては困るんです。


「しかしまぁ、そこまでやられると相手にとっても面倒だろう」


 そう。だからそもそも、代案を出せという言葉で批判を撹乱するべきではない、と思いますね。まず問題があるならそれを分析し、どう解決すべきなのか、今後の対策は可能なのかを考えればいいんですよ。


「すると、代案を出すこと自体、非効率なんだということになるかな」


 そうとも言えると思います。あまり相手の立場で……、というよりは同じ方向を向いて考えさせことには向いていない手法だと思う。
 いや、同じ方向を向くように、目線を揃えていく議論には向いていないというところでしょうか。


「なるほど。同じ方向ではなく、互いの顔を見合わせるようになってしまう。サン=テクジュペリの言葉だな。愛するということは、お互いに顔を見合うことではなく、一緒に同じ方向を見ることだ……、だ」


 やり方にもよるはずですが、何かのプロジェクトにおいても、それは言えることなんじゃないか、と思いますね。