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ネット時代の「影との戦い」/『ガッチャマン クラウズ』最終話を観て

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岩崎 琢

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ガッチャマン クラウズ|日本テレビ

 シナリオ運びの妙とキャラクターの魅力に引き込まれて観賞していた*1アニメですが、完結してみれば、自我の拡散したネット時代における、自己像の統合をうまく描いたような話で驚きがありました。


 自分の中での『ガッチャマン クラウズ』は結局のところ、総論すれば現代(ネット時代)版『ゲド戦記という趣の作品です。


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 はじめの物語が「影との戦い」のゲドだとすれば、自分一人が世界の中心になって全てを背負い込むものと思い込んでいた累やパイマン、O.D.の物語が「こわれた腕環」のテナーに当たるというところ。
 性差をミックスしたり交換したり、巧妙に恋愛要素を省いたりして既成のラブロマンスから外そうとする手付きもル=グウィンっぽいといえばル=グウィンっぽい。*2

アーシュラ・K. ル=グウィン影との戦い ゲド戦記I』p2

光は闇に
生は死の中にこそあるものなれ

アーシュラ・K. ル=グウィン影との戦い ゲド戦記I』p297

ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだ。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはやその生を差し出すことはないだろう。


 生活がつまらない、退屈だと感じていたはじめの心の渇望の深さがあのラストの選択に繋がると思えば、あれはすごい。
 絶えることのない悪意の集合であるカッツェを、そばに置いてようやくそのバランスが取れるのだと考えれば、生き方がマゾすぎる。
 ……と言うよりは、はじめにとってはカッツェすらも「退屈しないオモチャ」という扱いなのかも。*3


 ここまで狂気を感じたアニメヒロインと言えば、直近では『絶園のテンペスト』の不破愛花以来でしょうか。ベクトルは全然違いますが、記憶に残るタガの外れ方している。


 ──もっとも、これを「実在する個人の行動」として見れば確かに精神がヤバイのだけど、幻想文学的に解釈すれば、『ゲド戦記』における「影との戦い」的な自己実現をしただけとも読める。
 こうして影を全てひっくるめて自分のものとすれば、自らの意志以外のものからの支配を受けることもなくなるのだ……という。*4


 元々『ゲド戦記』の「影との戦い」は、よく知らない相手から慇懃無礼に煽られたりdisられたり、スルーしようにもスルーしきれず炎上事件を起こして、若気の至りな黒歴史を作ってしまった後悔を自分の中でうまく処理するような話です。
 このあらすじだけでもなんとなく連想できると思いますが、これは60年代に発表されたファンタジー作品ながら、「知らない相手に煽られたりdisられたりする体験が心の澱として残りやすいネット時代」との親和性も高いという、時代的な射程の広い物語です。


 それと同じような物語を、現代のSNSなどのガジェットをビビッドに用いて表現したのが『ガッチャマン クラウズ』なのだという見方もできる。
 物語途中で出てくる「電源切ればネットの中傷も気にならない」という対処法も、ちょうどゲドが影から逃げ出したり、光で闇を払おうとしていた行為が根本的な解決にはなんともならない(ただし必要な過程ではある)ことを描いた部分に重なります。


 中性的で、性をあまり感じさせず、内面があまり見えてこないはじめの描かれ方も、「個人としては感情移入しにくいキャラクター」にさせていると同時に、男女誰にでも当てはまるであろう自己実現の過程を抽象的(普遍的)に描き出すために機能しているようにも見える。


 数少なく描かれるはじめの内面がEDの歌詞だとすると、はじめは拡張した心の中で「助けて」「寂しい」といった善良な声を聞いて理解することはできても、「死ね」「ウザい」のようなネガティヴな声については「そんな声もあるのは間違いないだろうけど理解できるとまでは言えない」もので、だからカッツェの声を常に聞くことでやっと全き内面を得られるのだろう。


 最後に作品全体への私見ですが、SNSを用いた社会変革の物語としてはそこそこファンタジックなもので、例えば「群衆の善意」と「群衆の悪意」の対立に「ゲーム感覚のボランティア」を組み込んで翻弄するところはいいんですが、その場合は「悪意」以上に「無知や愚かさが生む事故」の方がよっぽど怖いことを我々は震災時のボランティア活動から学んでいますし、そういった問題点への提起は避けて物語を遂行している。
 だから社会風刺的なSFとしては、「スーパーテクノロジーによるSNSを総理大臣も活用するようになった」という、未来のロマンを描いた時点で充分なのだろうという評価をしています。


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*1:あと岩崎琢によるサウンドトラックも良かったです。「Unbeatable Network」と「Music goes on」がお気に入りで作業用に流しています。

*2:「悪役を倒して終わり」というファンタジーの定型に早くも抵抗していたのもル=グウィンですしね。

*3:「人の悪意の象徴」めいたクラウズ版カッツェとよく比較されるのが『ダークナイト』版ジョーカーですが、ジョーカーにとっては主人公のバットマンが「退屈しないオモチャ」扱いで、バットマン本人にしてみれば「いい迷惑」でしかなかったのが、クラウズではむしろカッツェの方がはじめに対して「いい迷惑」だと思っていそうな力関係の逆転が面白い。

*4:このあたりは作中の指標として出てくる「内発性と外発性」の差にも通じそう。