勝手な意味を作る言葉の厄介な性質/柳父章『翻訳語成立事情』
『「ゴッド」は神か上帝か』という、中国の聖書翻訳をテーマにした本があるのですが、これがなかなか面白い内容でした。読んだのは七年前くらいでしょうか。
同じ著者の『翻訳語成立事情』という本も面白そうだ、と最近書評を見掛けて気付き、合わせて読むことにしました。
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『ゴッドは〜』で提唱されていた「カセット効果」を、より多くの具体例を挙げて論じているので面白い。
カセットというのは「箱」の意味で、直訳しがたい外国語を「イメージだけの漢字の組み合わせや、近くても微妙に違う日本語」に当てはめてムリに訳すと、独自の意味が「カセット(フランス語で宝石箱、何かキラキラしたものが詰まった箱)」に込められていく、という現象を指しています。*1
考えてみれば、サブカル用語にもカセット効果はあり、それは言葉の一人歩きとも言われますけども、「言葉にしがたい概念」に意味の薄い略語や不正確な言葉を当てはめると、勝手に独自の意味が付け足されていく。
「センスがなくて使う気がまるでしない」とぼくが思う新語の類は、このカセット効果を予想できていない言葉なのでしょう。
また、「元々穏やかな(平易な日本語の)呼び方があるけど、別の名前付けようぜ」って流れからわざわざ作られたサブカル用語は、だいたい厄介で、地雷率が高いと思います。
そんな「センスのない造語」の実例は、ここでも使いたくないので挙げませんが、アレとかあれとかです。
勝手なレッテルを貼りやすい……乱暴なカテゴリでものを分類できる気になれたり、実体のないジャンルを現実のように語れたりする用語が、多くありますよね。
福沢諭吉の翻訳の努力
ちなみに福沢諭吉は「カセット効果」に自覚的だったのか、穏やかではない造語を多用する翻訳家には批判的だったそうです。
そのため西洋の思想を日本に持ち込む際には、なるべく平易(曰く「穏やかな」)な言葉を使いたがったそう。
福沢の「天は人の上に人を作らず」にしても、彼の翻訳活動を通じて出てきた言葉だそうですね。
福沢はそれまでの翻訳で「God」に天、「individual」(今でいう「個人」)に人、という字を当てはめてきたので、その意を汲んで現代語訳すれば「神は個人の上に個人を作らず」という、あまり東洋的でない思想だったことが窺えます。
でも「神は個人の上に個人を作らず」という意味のことを福沢諭吉は言っていたんですよ、と説明しても、たいていの人はギャップを感じるでしょう。
「人の上に人を作らず」は「人の上に人を作らず」という意味の言葉であって、「個人の上に個人を作らず」という意味で考えることなどないからです。
だからこのように、平易な言葉にこだわりすぎても「カセット効果」は生まれ、「翻訳」という本来の意図は果たされず、「言葉の響きや雰囲気」だけで勝手な意味が生じてしまう。
福沢が西洋的な思想を遠回しに表現したために、「福沢が言うところの人」という独自の意味を読み手に想像させるわけです。
それは「individual」の意味でもなければ、従来の日本語の「人」でもない、「何か今までにない考え方を福沢諭吉が述べたもの」という雰囲気だけのイメージがカセットに入っていくわけです。
「呼び表したいものが元々持つ意味」と、「それに名付けた言葉が元々持つ意味」。
このふたつに「カセット効果の意味」が付け足されるのですけど、このカセット効果に気付かないまま新語を濫用している人は、無邪気で済む話じゃないので、よく考えて、「この言葉で呼んでいいのか?」って悩んでみてほしいです。
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近代の日本人が、多くの「翻訳語」を作り出した功績について、肯定的に紹介しているのが加藤徹『漢文の素養』です。合わせて読むといい本だと思います。
ただし柳父章の『翻訳語成立事情』は「日本に社会や権利っていう言葉は実はなかったんですよ、訳語を考えた当時のインテリは偉いですね」というトリビアでとどまりません。
「強引に翻訳することで、どんな誤解や新しい意味が生み出されてきたのか?」という負の側面を解説した本ですから、著者への期待通りに刺激的な一冊でした。
国語教育としての重要さ
ところで、「個人」や「権利」、「自由」という、今では当たり前に用いられる言葉が、「日本伝来の概念ではなく、また西洋から輸入した概念そのままでもない」、意味の歪んだ言葉である、というのは国語の肝要なポイントとしてもっと広く伝えられた方がいいかもしれません。
例えば英語のrightを訳した「権利」という言葉には、「権力」と似た「何か力を持っている」というイメージがあります。
しかし英語のrightは、むしろ「権力」のような力とは対立的な概念であって、それ自体に「力」があるわけではない。権力によってrightが成り立つという、相補的な概念だと柳父は言います。
なのに「他人に何かを強制させる力」という意味を一字だけでも持つ「権」の字を充てたことで、なにかと日本人は「権利」を「権力」と同様、「権利を振りかざす」という、力のあるものとして使用する羽目にもなっています。
本来の意味以上に、「何か力のあるもの」という意味で使われやすい翻訳語に「自由」があるでしょう。
実はfreeやlibertyの訳語である「自由」は、自由と訳すことに批判もあった訳語でした。
代わりに提案されていたのが「自主」で、その証拠に和英辞典で「自主」を引くと「freedom」と出てきます。
自由も自主も同じfreeの訳語なのですが、現代の私たちは「自由と自主は訳語としては同じ意味を指すのだ」と言われてもギャップを感じるはずです。
それは「自由」にカセット効果の意味が加わったぶん、「自由は自主ではない、何か別の意味のある言葉だ」と雰囲気で感じているからです。
考えてみれば、自主の「主」は主体の主、あるじの主だろうとすぐに意味が解ります。そのため「自らの主となる」という、何か責任を伴うようなイメージを掴むことができるでしょう。
実は英語のfreeやlibertyは、そんな自業自得・自己責任の意味合いを内包しています。だから「自主」という訳は元の英語に近いわけです。
逆に自由の「由」にはほとんど掴み取れる意味がありません。
この「ほとんど意味がない」言葉にカセット効果は加わりやすい、という性質がある。
自由の「由」からは、せいぜい「自らに由来する」「自らに任せる」という意味を掴める程度*2ですが、そこから生まれるのは「わがままが許される」「好き勝手で構わない」という、自業自得や責任から縁遠いイメージです。
よく言われることに「自由と責任はワンセット」という考え方がありますが、元々「自己責任」のニュアンスを自然に伴っていたfreeやlibertyと違って、日本語の自由は「わざわざ責任とワンセットにして教えなければ、自由が責任を伴うことをイメージするのが困難」なくらいにカセット効果で満たされているわけです。*3
また、このカセット効果に満ちた「自由」が先述した「権利」と合わさって、「俺には自由の権利がある」と強弁することが可能にもなっている……と柳父は言います。
ちょっと遠回りに説明してきましたが、要するに「自由ではなく自主という訳語が主流だったならば、わがままが許されるという意味で使われることも減るだろう」ということを言ってるんですね。
他人に迷惑をかけるようなワガママ行為を、「俺には自主の権利がある」と言って自己正当化しようとする人は、たぶんいないでしょう。
「自主」の権利ならば、「では自分自身の主人として、責任をしっかりしてくださいね」と相手に思われるだろうことは、言葉のイメージで掴めてしまうからです。
そんな風に、「本当にこの言葉の効果に支配されたままでいいのか?」と考えなおす機会が、多くの人にあればいいなと思いました。
『翻訳語成立事情』は、「社会」「個人」「自然」「美」「恋愛」「権利」「自由」「彼・彼女」などに章を割いてそれぞれ解説しています。
改めて良い本なので、一読をおすすめします。
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