ソーシャル時代の共有体験(Shareness)を考える・後編
「外心の呵責」と「自己切断」
ここからが核心です。
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英文学者で文明批評家であるマーシャル・マクルーハンは、「良心(内心)の呵責」という言い回しをひねることで、「外心の呵責」という興味深い表現をしています。
内心の呵責が「agenbite of inwit」、外心の呵責が「agenbite of outwit」の和訳ですから、日本語としては、自責の念に対する「他責の念」とも言えるでしょうか。
肝心なポイントは、「外心」にせよ「他責の念」にせよ、その正体は「外部に拡張された自分自身の感覚」である、という点にあります。
本来なら人間の知覚は、聴覚的な世界や、視覚的な世界、肉体で感じる世界、嗅覚や記憶から構成される世界……それぞれと相互に連絡を取り、緊密に連結しているものです。
たとえば漫画家の赤松健は、インターネットで人がコミュニケーションすることを「魂だけが肉体を離れているようなもの」と表現していました。*1その比喩は的を射ていると言えるでしょう。
この「魂が肉体を離れる」……つまり感覚が「外心」となって他の諸感覚から切り離されることを、マクルーハンの言葉では「精神的な麻痺」、「自己切断」と呼びます。
そして自己切断された「外心」は、その関心が向けられている対象と一体化した「自動制御装置」になってしまう、と述べています。
宮澤淳一『マクルーハンの光景』p34-35
テキストに戻れば、「自動車の運転をしたり、テレビを観たりするときの私たち」も「外部に突き出た自分自身の一部分を扱わなくてはならないことを忘れがち」だとあります。自動車をひたすら運転し続けたり、テレビを観続けたりといった「自動制御装置」になってしまうということでしょう。
ここにマクルーハンは「根本的な問題」を見ます。〔中略〕私たちは自分の拡張に「それと知らずに恋をする」のです。〔中略〕要するに、魅せられ、夢中になり、濫用している自分に気づかず、耽溺してしまうのです。
そして、自分自身の拡張に耽溺するのは「精神的な麻痺」(psychic numbness)のためだ。
前編で「ユーザーの参加を必要とするビデオゲームであっても、同じ作業を強いられるだけでは、非常に受動的な立場に置かれることになる」という旨のことも述べましたが、これは明らかに「自動制御装置」的な状態です。
前編ではそして、「活性(ホット)」のメディアは受動的になりやすく、「非活性(クール)」のメディアは能動的な参加を促す性質があることについて触れました。
だから「ユーザーの参加」なくして成立しないゲームの類は、本来「非活性」に属する性質を持ちます。
しかし、コンテンツ自体は非活性に属していても(=メディアとしては能動的な参加を要するものでも)、そこに多くの観客があらかじめ感想を投げ合っている場合──前述した言葉にすれば「Sharenessの強い劇場(アリーナ)」の場合──、それは「活性されたコンテンツ」となり、むしろ私たちの能動的な参加を奪うことがあります。
そのようなメディアに接する場合、感想や思考を共有することに飲み込まれ、観客は自動制御装置化してしまう……思考のレベルで「自己完結」する危険が高いと考えることもできます。
例えば、以下のような表現で「強いShareness」がもたらす束縛を論じるエントリもあります。
なんでも実況できるようになって、あらゆる体験が共有できるようになると、同時に今度は、自分の体感が希釈されて、信用できなくなっていく。〔中略〕感覚のソーシャル化というのは、それを単に共有できるというだけでなく、何かの許可がないと、その感覚をどう受け取っていいのか、それを自分で決められなくなることでもあるのだと思う。
感覚に許可が必要になる - medtoolzの雑記帳
自分の感覚を「ソーシャルなシステムの中に委ねる」という行為は、まさに拡張された感覚を「自己切断」しているということです。
そして、「外心の呵責」に衝き動かされることを意味するのでしょう。
さらに問題なのは、その切断された自分の感覚が、自己完結することで「それ以上の外に広がりにくい」という閉鎖性です。
ゲシュタルトの形成と呼んでもいいでしょう。本来は多様なはずの情報が、ひとつの形に均一化された認識をしてしまう。
また、その外部にあるはずの情報を「無視」して、「ないもの」として扱ってしまう。
スケールの異なる自己完結
もちろん自己完結というのは、Sharenessとは関係なく、一人でいても起こるものです(文字通り「自己」完結ですから)。
現代でも、より深刻な自己完結に陥る人というのは、だいたい「ソーシャルなネットワークに属さない、社会から断絶しているような人」であるのは変わらないかもしれません。
ただ、「自己完結」する環境の種類や、その「自己」を取り巻く環境のスケールが変わってきていることに気付くのです。
これは三段階くらいのスケールで考えられると思っています。
独りぼっちの自己完結。
仲間内の共同体で閉じた自己完結。
そして、インターネットによる拡張感覚の自己完結。
──いずれも「他の可能性を軽蔑・軽視する」というスノッブさに繋がりうる「末路」と言えるでしょう。
いずれも危険ですが、とりわけ警戒しなければならないのは「新しい感覚が加わること」による、未体験の出来事です。
人間にとって未知の感覚ほど、「自己切断」の危険性は増し、自己完結について無警戒になりがちでしょうから。
「私は自己完結なんかしてないよ」と嘯く者こそが最も危うい自己完結に陥りかねない……というジンクスが当てはまるのは、彼にとって「未知」の感覚が存在しているケースなのですから。
また、ぼく個人の考えとしては、近代的な「個有」の体験や、「ゆるいShareness」の体験を通過してからの方が、その後の思考は外に広がりやすいはずだ、と思っています。
個有の体験や「ゆるいShareness」の体験では、どれだけ言いたいことがあっても(人から感想を聞きたいことがあっても)、鑑賞している間はぐっと我慢しなければなりません。
マナーの厳しい映画館やコンサート会場などが顕著ですが、ちゃんと隣に人がいたとしても、すぐに伝えたいことも伝えられない「集団の中の孤独」が含まれた共有体験(Shareness)だということです。
そんな「ゆるいShareness」による「なんとなくの共有」は、それが言語化されない「なんとなくの空気」であるがゆえに、臆断や独断を許さないものであって、事後的に異なる意見と出会った時でも新鮮な「他者」の存在として受け容れることに繋がりやすいのではないか……そんな風にも思います。
「なんとなく」の共有でしかないと理解するからこそ、想定しなければならない「他者」は多様で広い範囲におよぶのでしょう。
逆に、「強いShareness」における他者は、すでに言語化が済んでいるがゆえに臆断と独断が容易に可能であり、その上で「外部の他者」に対してはとても頑迷になりうる──そもそも外部に他者がいるという想像すら乏しくなる──ように思えます。
前述したように、「ゆるいShareness」での共有体験は、共有の機会が段階的であって、「なんとなくの共有体験」から「具体的な共有体験」への二段構えになります。
しかし「強いShareness」では、共有の機会が一度に集約されていて、自分が参加したタイミングの共同体こそが「他者」の全てであるように感じられやすくもなるでしょう。
「未開社会のムラ」→「近代社会」→「情報社会のムラ」というスケールの変遷
まとめると、時代に分けてみっつのモデルで共有体験を考えることができます。
古来の原始的な「村」では、聴覚が「共有」できる情報の中心でした。
音は同時多発的であり、全方向的であり、一度に「すべて」を感じやすい情報です。
近代に入ると、視覚が聴覚に取って代わります。
書籍で読む「文章」は直線的であり、絵画や写真で眺める風景は一方向的です。
近代のスタイルで「すべて」を知るということは、同時にではなく「順番に」、全方向ではなく「目の前の」情報を、ひとつひとつ得ていくことを意味します。
そして現代……特にインターネットが出来てから、情報はまた同時多発的/全方向的になりました。
距離を無視した方向から、同時に情報が舞い込んでくる。
インターネットは、主に目を使うメディアなのですが、その体験は「聴覚中心」の感覚と良く似ています。
近現代のメディアのキーワードは、「個有」と「能動」でした。
その反対……「共有的で」「受動的な」メディアが現代に現れているわけですが、これは近代以前の、原始的な「村」の状態に先祖帰りしているようなものです。
この変化を、キーワードの連想でまとめてみましょう。
- 古来のムラ・・・ざわめき、太鼓や狼煙のイメージ、しきりのなさ、同時多発性、距離感のない全方向性。受動と共有の聴覚空間
- 近代社会・・・手と目で直接触れる、通時的、パースペクティブの視点。能動と個有の視覚空間
- 電子時代のムラ・・・しきりのなさ、視覚の聴覚化、同時多発性、距離感の消失した全方向性。受動と共有の聴覚空間
また、象徴的なフレーズがあります。
マクルーハンは「地球村(Global village)」という言い方を広めた人でもありました。
「地球村」という言葉の響きからは、まるでジョン・レノンの歌う「イマジン」の歌詞のように、牧歌的で平和なようすを謳っているように感じるかもしれません。「宇宙船地球号」のようなロマンもイメージするかもしれませんね。
後年この語は普及につれて肯定的に用いられるようになったが、もともとマクルーハンはこの語を否定的なニュアンスで使っていた。
グローバル・ヴィレッジ - Wikipedia
ですが、人口のふくれあがった未開社会というのは、現実において「単純に治安が悪くて小規模な争いが絶えない世界」であることを意味します。
それは例えば、ジャレド・ダイアモンドの『銃・鉄・病原菌』における、未開社会についての研究を参照しても理解できることです。
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本当に比喩として、電子化された社会を「ムラ」と呼んだ場合、それはのどかな一体感よりもむしろ「治安の悪さ」「私闘・私刑が自由に行われる土地」のメタファーとして「ムラ」と呼ばれていると思うべきなのでしょう。
ニコニコ動画とUstreamのシステムの差によるゲシュタルト形成の違い
ここからは各論です。
UstreamやTwitterにおける実況コメントは「目立つような発言でも押し流してくれる」が、ニコニコ動画のコメントは「排他圧」を生み出すという違いを指摘したエントリもありました。
Ustの右側にあるtwitterの流れる速度が速ければ早いほど公開アカでも腐った発言をしても目立たない。
うたプリとタイバニの流行り方の違いとそこに見るソーシャルの可能性について - オタク業界をユーザー目線からみてみた。
しかし、ニコニコはコメントの調整がしてあるので「腐発言」をすると目立ってしまいます。
コメントで、腐発言をする人がいれば荒れる原因となるでしょう。
また、ニコニコ動画は「タグ」の登録によってその動画の方向付けを与える(コントロールする)ことができます。
タグロックされたタグ以外は自由に書き換えられるというシステム上、ユーザーの多数決でタグが決定する色合いが濃く、アングルの多彩さよりも、むしろ「同調的なものの見方」が働きやすい場だと言えます。
ゆえに、ニコニコ動画の作品は、単一のゲシュタルトを形成しやすい環境だと言えるでしょう。
逆にUstreamやTwitterは、タイムラインごとに別々のゲシュタルトが確立されやすいシステムです。
さらにコメントが押し流されやすいという性質もあって、「読みたいコメントだけを共有する」こともできれば、「周囲の共有とは関係なくコメントする」ことも容易なシステムでもあります。
都市伝説感性とインターネット
コメントが押し流されるといえば、インターネットの特徴として「情報量が膨大すぎてすべてを追うことはできない」という側面を抑えておく必要があるでしょう。
むろん、「情報が膨大である」という事情は今に始まったことではなく、古来から「情報収集」には限界というものがありました。
ただ変化があるとしたら、昔ならば「情報にアクセスするチャンス自体に限界がある」のが普通だったでしょう。
昔の出来事の多くはライブ的で、記録に残ることがなかったり、記録があったとしても、物理的に入手困難な「レア」な記録であったりするのが当然だったからです。
一方、インターネットの時代で「情報が膨大すぎて追いきれない」と弱音を吐くときは、「情報にはいつでもアクセスできるけど、絶対数が多すぎて調べる時間が足りない」という意味で言われるはずです。
ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力 (講談社BOX) 村上 裕一 村崎 久都 講談社 2011-09-02 売り上げランキング : 82636 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
村上裕一の『ゴーストの条件』では、「クラウドを巡礼する想像力」というキーワードを用いてそんな状態が説明されています。
(※以下は泉信行による『ゴーストの条件』の解説。)
Web上の過剰な二次創作であったり、Wikipediaやアンサイクロペディアの膨大な(出典を確かめようがない/嘘八百の)項目であったり、すべての投稿を追いきれないニコニコ動画の物語と、vipのやる夫スレ……。
自己生成される物語。
『リトル・ピープルの時代』と『ゴーストの条件』を読み比べる - ピアノ・ファイア
物語世界の全体像はユーザーの認知限界を容易に超えていくでしょう。
インターネットは、私たちの「共有」を強くしますが、「共有されることのない情報」もまた大量に生み出します。
村上は、この状態を「都市伝説的」だと呼びました。
あたかも都市伝説的な、「強く共有されているわけではないが、確かに実在すると思われている情報」の存在感こそが、インターネット上の知識共有では重要な役割を果たすのだと。
例えば、先ほど「ニコニコ動画の作品は単一のゲシュタルトを形成しやすい」と述べましたが、それはひとつの作品に限定した話です。
「膨大な量の作品が氾濫しているジャンル全体」について語る場合、それは「都市伝説的」でとらえどころのない世界へと変わります。
その結果、「実際に見たことがなくても」あたかも実在するように感じることができますし……、「起源が存在しないものでも」容易に共有できるようになる。
もちろん、「自分はすべての情報を追いきれたわけではない」と批判的に自覚した上で、その共有を役立てられる人もいるでしょう。
問題は、どこまで自覚を広げられるかであって、そして「その自覚は本当に有効な自覚なのか?」と追求できるかどうかです。
プレミアムな体験と、時間差の共有
「全てを知ることができない」といえば、「鑑賞されるごとに内容が変化するタイプのメディア」が存在します。
古代から、「再演性の低いプレミアム(一期一会)な体験」がメディアの基本でした。
現代においても、ライブツアーや劇場公演などで「プレミアム性」の高いイベントは価値を持っています。
その場で共有することはできても、「同じ内容」を別の人達と共有することができないし、後からその体験を得ることはできない……という意味では、「ユーザーの参加によって体験が変化する」ゲームなどの、「非活性(クール)のメディア」と共通点があります。
そこから「コンテンツの複製」が可能な時代になると、「メディアを時間差で体験し、時間差で共有すること」が消費の中心になっていきます。
書籍の大量印刷にはじまり、安定した映画の配給、ビデオ録画が可能になってからのTV番組、ビデオやCDの販売およびレンタル、各種コンテンツのネット配信などが「再演性の高い」メディアに分類できるでしょう。
ちなみに時間差の共有といえば、ニコニコ動画を例に挙げて「擬似同期性」という概念が、ソーシャル時代特有のキーワードとして考えられています。
インターバルを用いた「強いShareness」
漫画の雑誌連載や、TVの連続ドラマ、TVアニメのシリーズなどは、「最新話がリリースされるまでのインターバル」を用いて共有を深めることのできるメディアです。
一週間もあれば、二次創作の漫画やイラストや小説などで「脳内補完」をシェアすることすら可能です。
一話ずつの単位では「独りで鑑賞する」スタイルだったとしても、次回までのインターバル中に毎回「共有」を行なっているようだと、「強いShareness」で消費するメディアと変わりのない消費をしていると考えていいでしょう。
コンテンツの最小単位ではSharenessが発動していなくても、「1シリーズ」という単位で通してみれば「強いShareness」が成立しているケースもあり、そんな状態は「ゆるいShareness」との区別が必要です。
スポーツ観戦でも、決着がつくまで静かにしていなければならないなら「ゆるい」共有ですが、インターバルごとに好きなだけ意見を交わしていると「強い」共有が得られる……というのと同じです。
PostScript
現代の共有体験は、良いことをもたらす部分もありますが、問題提起を含む部分もあります。
たとえば、「狭い世界」を広いものだと感じてしまう。
聴覚的な広がりだからこそ、「見えないところ」を忘れて「全方位的にすべてを感じている」気分になれる。
ただ、そんなネガティブな面ばかりを強調するのではなく、「自然でむりのない聴覚空間」を設計することはできないか? と考えた人もいました。
音楽家のマリー・シェファーはマクルーハンの言う聴覚空間を「サウンドスケープ(音風景)」と言い換えます。
人類社会の技術が発達するごとに、「騒音」を増大させていったサウンドスケープが、人間の脳を麻痺させうることを認めつつも、それは教育とデザインによって改善も可能だと論じていたそうです。
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そのような工夫を考えるきっかけになれば幸いですが、ひとつの指標として、ここで論じたことがみなさんに役立てばと思います。
参考記事
*1:マンガ・アニメの危機!? 徹底検証「都青少年育成条例」 - ニコニコ生放送 http://live.nicovideo.jp/watch/lv33251220