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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

【メモ】固有性と匿名性について

 『ザ・デイ・アフター・エヴァ(1998年、水声社)における、永瀬唯斎藤環の対談から、たまたま読み返して気になった箇所から抜粋。

可能世界と祭りの前・後・最中

永瀬◆ハードSF作家でラリイ・ニーヴンという人がいて、「時は分かれて果てもなく*」という短編があるんです。パラレル・ワールドとの間に交通のルートがつながっていて、交易関係ができあがった世界が舞台です。そこで次々に原因不明で自殺をする人間が増えていくという話なんです。存在可能な宇宙、つまり全宇宙、この一瞬ごとにまたいくつにも分かれて果てしなく広がっていくすべての可能世界とコンタクトできるという設定なんですが、最終的に、どういう世界もありうるといったことが、自由意志の否定になって、そのために、いま私がここにいるという現実感みたいなものを喪失してしまって、次々と自殺していくんです。
斎藤◆そうですね。「このもの性」がなくなっちゃいますからね。
〔中略〕
永瀬◆可能世界論で焦点になっているのは、無限の可能性のなかを貫いている私、ほかの世界でも同じ私であるという、時空を貫くような私を認めるのか──これは「ソーセージ理論」というふうにいわれてるみたいですが──、それともバラバラに分断されていって、「この私」と「あの私」は基本的に違うのか。
〔中略〕
斎藤◆ええ。「他者性」をいかにして引き受けるか、ということです。境界例が治りにくいのは、他者性に出会う契機がふさがれちゃってるからなんですよ。境界例のイマジネーションの力というのはものすごいものがあるんです。ぼくは、『エヴァ』のアブジェクション的なイメージというのは、やっぱり境界例的だなと思って見たんです。ほんとうに「狂気」のぎりぎりまで肉薄できるんで、だからこそ「境界」なんですよ。あそこまで行けてしまうがゆえに、逆にどんな異様なものが出てきても他者としては受け止められないんですよね。想像力のかぎりをつくして、対抗しちゃうんですよ、現実に対して。
永瀬◆かぎりをつくして、「私」というのが中心になっちゃうような物語の構図を作ろうとしちゃうわけですね。
斎藤◆そうなんです。ぼくは、境界例の人の空虚さというのは、自分の固有性がないのではないかという怖れにもとづいていると思うんです。固有性がない、ほっとくとどんどん匿名化していく自分みたいなものを、イマジネーションの豊かさでかりそめに救済しようという、むなしい試みに思えるんです。でもイメージだけでは絶対に救いはないわけで。〔略〕いわゆる「多重人格」についてもほとんど同じことがいえるわけなんです。二百だか、四百だか、大量の人格が出てくるケースもあるようですが、これは結局、自分の失われた固有性みたいなものなんです。多重人格の人格というのはすごく匿名的な人格であることが多いんですよ。みんな特徴がはっきりしていて、記述できるんです。この人はこういう性格だとか、この人は何歳だとか、なぜかしっかりと、それぞれに名前もついてるんです。
永瀬◆ああ、なるほど。スペックがはっきりしてるんですね。それはほとんどアニメ的、マンガ的なキャラクターですね。
斎藤◆まったくそのとおりなんです。アニメが多重人格的というのは、人格のスペックがはっきりしてるからなんですよね。スペックがはっきりしてるし、顔立ちもはっきり特徴があって、つまり「キャラ立ち」ですね、わかりやすく、記述しやすいものになっている。ところがそこでは、固有性は逆に失われちゃうわけですね。アニメ的世界では固有性というものは、分業態勢とか、業界の事情もあるんでしょうけれども、失おうと思えば失う方向にも、いくらでも行けるんだと思います。いまのところは、かろうじて作家性が確保されているという気もするんですけれども、すごく匿名化しやすいところにいるとは思います。

「気持ち悪い」とオタク的志向

永瀬◆「匿名性」をキーワードにしちゃうと、それはまさにオタク的な世界ですよね。システムのなかに、あらかじめメタレベルまで含めてわかったものとして了解してしまえるという。
斎藤◆そうなんですよ。あっさりと了解しちゃえるということは、匿名的なものであるということになりますね、やっぱり。
〔中略〕
永瀬◆でも、あの「気持ち悪い」があってもなお、「地上最後の男女になって、アダムとイヴで」とか、そういうような読み方もされてますが。
斎藤◆それはぼくは、救いがたく匿名的な読みだと思うんですよ、やっぱり。
永瀬◆斎藤さんがおっしゃっている匿名性というのは、アニメオタク的な言い方でいうと、パターンの順列組み合わせですね。
斎藤◆ええ、そういうことです。了解可能性。「これって◯◯だよね」というその言い方にすべて入ってますけれどもね(笑)。


 オタクの行う「匿名的な読み」というのは、十数年経った今でも、なお強化されて存在しています。
 それは、「境界例的なイマジネーション」と関わりのある想像力と言えるのかどうか。


 自分の想像力や引き出しの中で「了解」することの無思慮さについてや、「交換可能ではない掛け替えのなさ」についてなど、改めて考えさせられること多々。


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