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ペトロニウスさんによる『ひぐらし』論、選択可能性の倫理

 ちょっと前なのですが、Language×Languageの相羽裕司さんからブログへのリンクをいただいてました。ちょっとそのことについて。
  ぼくの記事から『ひぐらしのなく頃に』の話に繋げていただいてます。

ハーレムギャルゲーの終焉は『ひぐらし』でも描かれている: ひぐらしのなく頃に解/ネタバレ感想ブログ

 去年(09年)の暮れ頃に、『ときめきメモリアル4』の隠し(なのかな)ヒロインが話題になったりしました。


 特にサブカルチャーを視座に入れながら批評的な活動をしている方々のブログやTwitterで話題になっていた感じがあります。たとえば、いずみのさんのこのエントリなんかが参照できます↓


『ときメモ4』と『生徒会の七光』がゼロ年代最後尾のリリースであることの意味/ピアノ・ファイア


 少し乱暴にまとめてしまうと、00年代、オタク達は、ギャルゲーなりハーレムアニメなりで、俺たちは複数のヒロイン達からよりどりみどりに選べる、わーいみたいに喜んでいた所に、00年代の終わり、ヒロインの一人がヤンデレ化して、「誰でも選べるとかどういうこと? どうして私一人を選んでくれないの?」と逆襲にやってきた、みたいなお話です。


 この話を聞いて僕が思ったのは、これは既に『ひぐらし』でメタフィクションとして描かれていたな、というものです。


 それは、『綿流し編』&『目明し編』の魅音&詩音。

(※ネタバレにつき中略)

 「多世界解釈」ネタは、価値観の多様化が進みすぎて、正義どころか世界観まで相対的になってきた感のある時代を受けてか、『ツバサ』や『仮面ライダーディケイド』と、09年に00年代の幕を飾った物語でも顕著だった訳ですが、今回のハーレムとヤンデレの対照構造も含めて、『ひぐらしのなく頃に』は本当決定的に00年代の物語のストリームを体現し、また牽引した存在だったんだなーなどと、改めて思ったのでした。

 
 そういえば、ペトロニウスさんが『ひぐらし』の同じ問題についてネットラジオで発言しておられたのですが、いい機会なので、その書き起こしを載せておきましょう。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090927/p1

  • ※録音データの公開期間は終了済み


 あの、倫理的にはね、「自分たちにとって都合のいい世界を選んでしまう」っていうことは、「間違いなんじゃないか」っていう問いがいつも起きるんですけど、それはいろんなやり方で回避されている所があって、『ひぐらしのなく頃に』という作品の世界はですね、「鷹野三四がいつも同じ世界を作り出すこと」の倫理性が問われている世界なんですよ。


 だから、他のキャラクターはそれに対するチャレンジャーなんですよ。彼らは完全に敗北することがわかりきってて、ほとんどのケースで敗北していく中で、「唯一の答えを見つけ出すために戦い続ける」っていう、はっきり言って不可能なことをチャレンジするっていう物語になってるんです。


 だからこそ、美しいんですよ。なぜそれが美しいのかっていうのは、一回性の強度の問題、ジャズで言うインプロヴィゼーションの問題と呼んでるんですけど。


 あの、結局ね、答えじゃなかった世界をどれだけ描いているか……、つまり、レナと殺し合う世界とか、自分のために心配してきてくれた魅音を殴り殺す世界であるとか、自分の顔をかきむしって皮がベロベロに剥がれて死んじゃう世界とかっていうのを、これでもかこれでもかと描いて……。


 それは鷹野が選んだ世界かもしれませんけど、そこに到達したというのは、「自分の失敗」が、そこにいた人達の失敗があるわけじゃないですか。勇気を持てなかったとか、人間として単純な倫理を一歩間違えたっていうだけで、そういうめちゃくちゃな世界が起きていくわけじゃないですか。『ひぐらし』っていうのは。



 要はいかにね、陳腐で当たり前のことをね、ひとつひとつ積み重ねていくのが難しいのかっていうことの、強度を試す物語になっているんですね。並行世界の物語っていうのはそういう側面もあって。



 なんかね、陳腐な答えになるじゃないですか、骨太の物語っていうのは。「好きな女の子と結ばれる」とか「わーいみんなが助かったー」とか。物語っていうのはそういうものなんですよ。

 こんなのは勧善・懲悪って良く言われますけれども、物語っていうのはもう、あるべき姿に落ち込んでいくっていう「型」が決まっているものなので。決まっているっていうのはね、骨太のとても強いエネルギーがあるんですよ。なぜならみんなが望むことだからなんですね。


 ところが、今の僕らの世界の人っていうのは、妙に頭が良くてですね、類型をいくつも経験してしまっているがゆえのことだと思うんですけど、先を読んで「なんだよまたこの終わり方かよ。みんなが救われるとかわかってるんだよ、全員死ぬ所とかが見てーんだよ」とかみたいなやつが出てくるんですよ。


 人間ってね、ものすごく、イヤな生き物でしてね。当たり前の結論というのを嫌がっていくんですね。退屈と繰り返しに飽きる生き物なんですよ。これね、人間の……現代哲学の大テーマ、ですよね。退屈の生き物なんですよ。一回性の強度が失われていく生き物なんですよ、人間っていうものはね。


 その人達に、「当たり前にみんなが助かりました」っていう物語を、……でもそれが一番いい物語なんですよ? 一番感動する物語なんだけど……、一番感動できるはずの物語に感動しなくなってしまった消費者に「どうやって体験させますか?」っていう問題に対して、並行世界っていうのは良く出来てるわけですよ。


 つまり、「こっちの分岐を選んだら、こんな悲劇が待っているんだ」……その悲劇も、「そんじょそこらの悲劇じゃねぇぞ」くらいの悲劇が起こるわけじゃないですか。むしろ『ひぐらし』っていうのは、最終的に最後まで行くと「なんだそんな話か」って話なんですよやっぱりね。


 だけど、むしろ何が面白いのかっていうと、あれね、やっぱりレナと殴り合って殺し合うとか、自分を助けにきてくれた魅音を後でめちゃめちゃに殺すとか、ああいうのが美しいんだよ。




 ぼくはブログで書いたんですけど、最後には陳腐な選択……例えば友達を信じるとか。困ったらね、大人に相談するとかね。ダメだったら自分じゃなくて法や社会や組織に訴え出るとか、当たり前のことをやってるだけなんですよね。



でも、すごく仲のいい自分の友達が幼児虐待に遭っていても、自分の力でそれを救うことって、ま、実際そんな選択肢なんて存在しないくらいのもんなんですよ。いやそら、現実ってそんなに甘くないんですよ。金も力も無いやつに世の中で何かができるわけがないんですよ。だから僕は金も力も欲しいと思ってるんですけど。

 でもねやっぱりね、人間って無力なもので一人の個人の力っていうのは限界があるんですね。その時に正しい手段だと思ってやってることだと、間に合わないことが多いんですよ。だって僕らはこうやって生きているだけでアフリカの子供達を殺していることと変わらないんですよね。



 そういう、なんて言うんでしょう、「身も蓋もない現実」っていうのが我々にはあって、わかる人間にはわかるはずなんですよ。わからないやつらはバカなだけであって。事実そういう構造の中に人間っていうのは生きているんですね。

 だけど、みんなそういうこと考えてらんないじゃないですか? 「そんなこと言ったって明日だって会社行かなきゃなんないしー、今日疲れたから風呂にも入りたいしー」、みたいな。人間ってやっぱり目の前のものにしか反応できない生き物なんですね、悲しいことに。


 だけど……、だけどそうじゃないんだと。正しいものは見なきゃいけないんだということを気付かせるには、「だったらどういう方向に行くの?」っていうことを一回経験してから戻ってくるっていうことをやるのが、やっぱり一番わかりやすいんですね。


 なぜかっていうとあの、まぁ私小説っていうか、今の文学のテーマというのは「個人のミクロから世界がどう見えるのか」っていうことにものすごく収斂していくんですよ。個人の心の問題に。なぜかっていうと単純な話で、それはリベラリズムで個人を解放する時代に生きているからなんですね。


 個人の、心の思いこそが世界よりも重いっていう社会なんです我々の社会っていうのは。リベラリズムっていうのはそういうことですから。ま、そういうことじゃないんだけど、まぁリベラリズムはそういうことっぽい、ので。で、我々はそういう方向にある。



 でも、僕らは一人で生きているわけじゃない。たくさんの人間と、このマクロの地球っていうものとか、地球環境と共生して生きているのであって。「その肥大した自己とマクロとのバランスをどうやって取るんだ」っていうのを試されるんであったら、「仮にもし地球が滅びちゃったとか、自分の好きな女の子が殺されちゃったとか、そういうことを体験してみなさい」、っていう仕組みになってるんですよね。

 これは良く出来てる、物語だなーって思いますけど。