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「悪意を憎め、悪意を恐れろ」/映画『ダークナイト』の好きなシーン

 夏の映画は『崖の上のポニョ』、『ハムナプトラ3』、『劇場版 空の境界 第五章「矛盾螺旋」』、『スカイ・クロラ』、『ダークナイト』、『劇場版 天元突破グレンラガン 紅蓮編』などを観てきたのですが、中でも『ダークナイト』の好きなシーンについて語ってみます。


 それは船の爆破スイッチを押さない選択をした、あのシーン。あの船のシーンです。あそこですよね、ダークナイトのクライマックスって?


 あの牢屋主みたいな黒人のおっさんは、自分が悪人だからこそ「悪意」というものが人間から遠ざけるべき「おぞましいもの」であることを知っていて、つまり罪を負っているからこそ高潔な精神を保っていたと言えます。
 一方、無実の市民代表である白人のおっさんは、「自分が悪人になるのが怖い」という臆病さだけで押さなかったという程度の話で、まさしく「おぞましい」悪意を小市民的に代表しつつも、悪人にもなりきれない小心者っぷりが強調されていた、と観ました。「善意」が「悪意」に打ち勝ったわけでも、黒人のおっさんのように高潔な精神のもとに断行したわけでもなく、ただ「保留」しただけにも見える描かれ方をしている。


 どちらにしても性悪説の人間観であって、ああいう極限状態に陥ると、人間は「うすっぺらい善意」なんかよりもむしろ……、「悪意を憎む」ないしは「悪意を恐れる」感情に依って「悪」を遠ざけようとする、ということなのでしょう。
 それに、おそらくは「プロ」として罪を犯したのだろう黒人のおっさんは、犯罪者の矜恃として「ジョーカーの思惑通りに悪意に流されるわけにはいくか」、というプライドもあったはずだと思います。犯罪者だからこそ、悪意ではなく誇りが必要なのだから。最低限の人間性を失わないために。


 一切の動機や人間性を持たない、「純粋な悪意の象徴」としか言いようのない悪役・ジョーカーを演じたヒース・レジャーは、薬物のオーバードーズで亡くなったといいます。役作りのためとはいえ、「人間性を失った深淵」を覗いてしまったから「そこ」まで行ったのではないかと思わせるほど、スクリーンの中のジョーカーはおぞましく恐ろしい。


 あの爆破スイッチのシーンは、ストーリー序盤の「ビリヤードのキューを折って投げるシーン」が予兆として働いています。「どうしようもない悪意」とは、極限状況によって作り出すことができるのだとジョーカーは思っている。
 しかし犯罪者はジョーカーに用意された悪意を憎み、臆病な市民は悪意を恐れる。
 それぞれ「悪意に支配されない理由」は異なっていましたが、うまいこと「うすっぺらな善意」などにテーマが還元されないようなシナリオになっていて、好感が持てるシーンでした。


 で、この爆破スイッチの対比は、そのまま「暗黒の騎士(中身は高潔なヒーロー)」と「純白の騎士(中身は堕落したヴィラン)」の表裏関係とパラレルになっている。だから「船のシーン」は圧巻なのだと思います。
 悪意を憎め、悪意を恐れろ。
 ジョーカーを憎み、ダークナイトを恐れるように。

近代民主主義社会の限界、匿名性の悪意

 映画を政治的に読もうとする余談なんですが、「中身は高潔」を代表するのが黒人で、「小市民」を代表するのが白人というのは、ハリウッド映画も人種問題に気を遣いすぎてて大変だな、と思いました。
 配慮が行きすぎると逆差別になるのでは、という心配もしそうになります。


 あと、多数決がロクな意志を選択しない(人前でやることなら善人を装うが、匿名投票では悪意を剥きだしにする)というクールな描写も、アメリカという国家のシステムに対する痛烈なツッコミになっててスゲエなと。
 ネットもそうですが、匿名性や、「顔の見えなさ」は悪意を増長させてやまないもの。
 そういう時こそ、「これはジョーカーに仕組まれた悪意なのではないか」と念じることで、おぞましい悪意を人から遠ざけた方がいい、のだと思います。
 ビリヤードのキューをボキンと折って、床にポイッと投げている「誰か」がいるわけです。「お前だけズルして他人を殺せ」と。すぐには気付くことができないくらい静かに。