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ゼロ年代における「契約から再契約へ」の想像力

 お久しぶりです。
 先週末は東京に出ていました。合計して27人との出会いがあり、七人の編集者さんと話しこんだり、小林尽に会ったりしていたのですが、このブログの更新再開一発目は、20日に催された「海燕オフ」発祥の「契約→再契約」の話をしたいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080922/p1

 あと、決断主義批判と「契約」「再契約」の話はおもしろかった。

 くわしく語りはじめると長くなるので省略するけれど、2000年代以降のエンタメ作品では、『Fate』や『コードギアス』など、しばしば「契約」というモティーフが取り上げられる。

 しかし、「契約」をあつかった物語では、かならず「再契約」が語られるものなんだ。という内容でした。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080921/p3

こういう「構造の流れ」はどうもありそうだな、ということだった。これは面白かった。いずみのさんが詳しく書いてくれそうな?予感なんだが、僕も自分でも考えてみよう。僕は00年代の想像力?というのかな、ウノさんという人が書かれている文を読んだことがないので、決断主義という言葉だけでの勝手なMY用語ですが・・・・。

 その場の参加者、ペトロニウスさんからも解説役を振られているので。

ゼロ年代の想像力』における年代別モデル

 さて、『ゼロ年代の想像力』は、以下のような仮説モデルを提示している。

・90年代後半に「価値が相対化されて判断基準を喪失し、何も選べなくなる」という、ひきこもり的想像力がクローズアップされる


・続くゼロ年代は、その反動として「価値判断の根拠無しにあえて選ぶ」決断主義想像力がクローズアップされた時代であるとする

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 しかし決断主義はバトルロイヤル状況——、ぼくが言い換えるなら「万人による万人に対する闘争」(by ホッブズ)とでも呼ぶべき状況を生むだけなので、いずれ超克されなければいけない……。そういう問題提議のみで終わっているのが『ゼロ年代の想像力』でもある。
 つまり「決断主義」というワードは作業仮説に用いられる言葉にすぎず、その「次」が要るのだ。


 元々この仮説には大きな見落としがあって、まずニーチェが二世界説を批判して言うような「価値の相対化」がそもそもの間違いであること。
 人間は痛みを感じるのはイヤだと思うし、目の前で泣いてる女の子がいれば助けたいと思うものだ。そこで「助けたいという気持ちと助けなくていいという気持ちの価値は相対化される」というのは思考停止に近い。何もかもが無価値になるようなレベルなんて、所詮は仙人や宇宙人のレベルだろう。
 生身の「快/不快」スイッチを持った人間が、ベターを目指し、イヤなことにはイヤだと思い、(相対化されがちな善悪に対しても)「最善」を願いつづけることに、何の間違いがあるだろう?

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 次に、そういう人間の生理があるのだから、王道的なメロドラマはいつでも滅びなかったということ。90年代に落ち込みはすれど、連綿と続いている。


 そして、その王道のドラマトゥルギー(=想像力)が、そのまま「決断主義」へのアンサーになりうることを見逃していること。
 第一、「万人による万人に対する闘争」なんて古典的なレベルに問題を巻き戻しているあたり、思想を積み重ねていけばすぐに答えは出てくるものだったのだ。
 そういった違和感を、泉信行としては一年くらい前に言及していたりもする。

『ゼロ年代の想像力』に向けたメモ - ピアノ・ファイア

 でも『バトル・ロワイヤル』や『ドラゴン桜』以前にも、「生き残り」とか「決断主義」、「その問題点と克服」を描いてきたモノというのは、少年漫画なんかの中にいくらでもあって。

 今回の議論で、ややこしい理論立てを必要とせず、割と一発で「決断」に代わる想像力を説明できるキーワードとして浮上したのが、「契約」だった。


 ちなみに「社会契約説」で言うようなカタい定義のある「契約」ではなくて、もっと中二病っぽく格好付けた、少し日常から乖離したキーワードとしての「契約」だと思ってほしい。

決断と契約の違い

 一般に「決断主義」と聞いてイメージされるのは、エヴァンゲリオンで言うなら

目の前で綾波が血を流している
 ↓
逃げちゃダメだ×8回
 ↓
僕が乗ります!

……なんだろうけど、ここには「シンジの自由意志」というのが残されていて、「いつでも降りられる」ようになっている。
 ミサトもゲンドウも加持も「降りたいなら降りろ」と言うもんだから結局ひきこもってしまうわけで、実は「決断」こそが「ひきこもり」の入口になっている、とさえ言えるだろう。


 それに対して、もしゲンドウが「俺の息子しか乗れないんだから乗れ」と有無を言わさない条件を示し、パイロットとして「雇用契約」をしたならば、シンジには「契約を破れない」という縛りがつくだろう。
 でもTV版エヴァの第壱話では、「乗れ」という契約はあっさり蹴って、「僕が乗ります!」という自己決断で乗ってしまうのだ。
 当時の庵野監督のイメージとしては、「人の意志ではなく自分の意志で乗る」、というモチベーションの方に興味があったのだと思う。

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  • 新劇場版(ゼロ年代)でも、相変わらずミサトは「降りたければ降りていいのよ」と伝えるのだが、それに対して「やっぱり乗ります」と応えた後は「雇用契約」に近い感じで組織に残っている……、というのはTV版(90年代)からの明らかな「変化」だった

現代の子供と、イージーな契約

 選択肢の少なかった過去に比べて、情報と選択肢に満たされている現在は、「決断」や「選択」に非常に大きなエネルギーを必要とするようになっている。
 それは実感としても、我々は良く感じているはずだ。
 だから少年を主役にした物語においても、まず初期衝動、モチベーションの構築に作者は苦労をする。「逃げちゃダメだ」を8回言っても、まだ一抹の迷いが残るのが一般的な感覚だろう。


 しかし元々、いつの時代の子供でも「チャンスさえあれば俺はやれるんだぜ」という自信に溢れていて、それは変わらない、と『コードギアス』の谷口悟朗はリサーチャーの視点で結論している。すると異なるのは、子供の環境だけだということになる。

 昔は「兄ちゃんいい体してるねえ」と言われてボクシングを始めたり、自衛隊に入ったりすることにはそれほどエネルギーを必要としなかった。そもそも選択肢が非常に少ないからだ。
 いわゆる「落ちこぼれ」や「不良」が成り上がるには、ボクサーかヤクザかアーティストしか無かった、という時代なら、ポンと肩を叩かれたら、それが縁だと思ってあっさりハンコを押して良かったのだ。


 そして現代においても、出会いさえあれば「あっさりハンコを押していい」ものだというのは変わらない。
 大人になってから気付くことなので子供には伝えにくいのは仕方無いが、人生とは「偶然の出会い」がほぼ全てだ。選択肢が豊富にあるからといって、相対化して迷うのはおかしい。結局「出会いがあれば飛びつく」しかないのが人生というものであって、自由意志の「決断」なんて、そもそも結果論としてありえないものだ。


 そういう意味で、自由意志を信じて「あえてこれを選ぶ!」という決断をし、なおかつそのモチベーションを独力で維持しつづけることはハードなのだが、「ハンコを押せば一定のレールに乗ることができる」という契約はイージーだと言える。


 ただし、ハンコを押してしまった後はそれなりにハードだろう。自己責任でカタのつく決断よりも、他者の都合が絡んでくるからだ。
 でも、「その場の勢い」や「不可抗力」によって結ばれることが多い「契約」は、物語における初期衝動としても描きやすく、便利だ。

ゼロ年代=「契約」の時代

 このことは、(いまどき)『仮面ライダー龍騎』を見始めたという、お友達の日記に触発されて、ペトロニウスさんやsさんと考えはじめたことなのだが…………、確かにゼロ年代には「契約」を導入に組み込んだエンターテイメントというのが、非常に目立つ。

では間をおかず噂のライダー13人バトルロワイヤルの
仮面ライダー龍騎」へ!!!
一話視聴終了!!


こ…これはオモチャがバカ売れする!!!!
素晴らしい設定だ!!!…実際どうだったんだろう?


しかし「契約」かぁーーっ、出たな「契約」!!
2000年代はとにかくやっぱり「契約」ですね!
90年代は「トラウマ」流行りだった訳ですが…


う〜ん、どうなるか楽しみだ!
Fateとも比べてみたいし、あーもう楽しいッ!


Fateも「契約」ですよね!
とにかく「契約」!
「契約」しないとキャラが動けないんですねー…
もしくは既に自分の立ち位置を決めてる夜神月ルルーシュか!

龍騎しかり、Fateしかり、ゼロの使い魔しかり。

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  • 最近のムーブメントとしては「代理バトル」と言って、ポケモンなどの「モンスターバトル」、ジョジョのスタンド戦から派生したバトル作品とも同じ流れにありそうだが

 「問おう。お前が私のマスターか」の世界。
 ドラマトゥルギーでいう「巻き込まれ型導入」というやつ。


 巻き込まれ型は、確かに一番「現代の子供向け」な導入だろう。「チャンスさえあればやれるんだぜ」とか増長している(でも自分から飛び込む度胸はない)所に、そのチャンスが向こうからやってきてくれる上に、試練のレールや「一度乗ったら降りれない理由」まで用意してくれる、ダダ甘の条件なのだから。
 契約とはつまり、目的(夢)のある者には「手段」を、手段(力)しか持たない者には「目的」を、凹凸関係のようにドッキングさせる「出会い」だと言えるだろう。


 非常にイージー、非常にスイートと言えて、そりゃゼロ魔も売れるわけだと思う。
 現代の人間というのは、いきなり異世界に召還されて、ツンデレるルイズにお願いされるようなことでも無いと、「やる気」が積極的に起きないのだろう、ということになるな。


 まぁ、強引でスイートな「不可抗力」による契約と、「ハンコを押す勇気」が求められる契約には差もあるが……。
 この関係性の射程は非常に広くて、グレンラガン(アニキとの舎弟関係)、部活モノ(だからハルヒのSOS団も入る)、ハリウッドのバディもの、etc……。「現代の想像力」というより「古典的な想像力」と言ってもいいくらいだろう。


 つまり、連綿と受け継がれてきた「王道」の上にきちんと乗ったドラマトゥルギーなのだ。
 しかし、ここらへんの定番パターンを「決断主義」と十把一絡げにしたのが『ゼロ年代の想像力』の限界で、だからデスノートFateが同列に扱われていたりする。

契約から再契約へ

 「偶然の出会い」から始まり、初期衝動がイージーな「契約」は、必ずそのイージーさや偶然性を克服するドラマに到着する。
 その描き方は様々で、例えば『うしおととら』の潮は、「偶然」獣の槍を抜くことで主人公になる。そのおかげで「獣の槍伝承者候補」たちから告発されつづける、という試練にぶちあたるのだ。
 潮は「偶然」選ばれたのだから、「資格」を争ってきた候補者たちが憤るのもムリは無い。


 始まりが偶然であり、そして「いくらでも換えが効く」相対的なモノだと告発されたなら、その実は「かけがえの無い」絶対的な必然だったのだと証明しなければ、ならない。
 少年漫画としては、その根拠をはっきりと理屈として語らないのが理想だ。ヘタに血統や先天性などを持ち込んだら、「資格があるから資格者だ」「強いから強い」のようなトートロジーになってしまい、むしろ説得力を失う。


 『うしおととら』全巻における潮の活躍を読破して、「主人公にはなりえるのは潮だけ」「潮に代わるキャラクターなどいない」という当然の結論を疑おうとする読者がどこにいるだろうか?
 潮は選ばれるべくして、選ばれた。「偶然を必然のものとする」証明とは、そういうもので充分なのだ。


 「契約」を描いた多くの物語では、「その場の勢い」で契約したまま続けていた契約が、本当に正しい選択だったのかを問いかける、「契約の解消」と「再契約」のドラマが描かれる。


 部活モノでは、仮入部のサインをムリヤリさせてから、「ここで私達と頑張ったことって、本当に楽しかった?」などと問うてから正式入部をさせる。
 『魔法先生ネギま!』のパクティオー、つまり「仮契約」と「本契約」っていう用語は、それこそ「仮入部」のパロディらしいけど、こうした文脈の中では、なかなか示唆的なキーワードを使っていたと言えるだろう。


 恋愛(結婚)も契約の一種なので、「一目惚れ」や「なりゆきによるカップル成立」などの一次接触から、互いの本性を知った上での「惚れ直し」や「改めての告白」がある。


 バディものでも、単なる「任務」での同行から、ケンカ別れした後で「ブラザーの絆」を結ぶことになる。

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 仇討ちものでは、殺し屋を雇った後に「本当に、まだあいつらが憎いのか? 本当に殺してやりたいと思うか?」という再確認があったりする(『無限の住人』がそうか)。


 ゼロの使い魔のような「召還」や「主従関係」も、「関係性の再構築」が必ず求められる。
 『マリア様がみてる』のスール制度なんかも、様々な「関係性の再構築」が行われていて、サンプルとして面白い。


 とっかかりや出会いは偶然であり、そのレールに乗ることは確かにイージーだし無責任かもしれない。しかし「再契約」という通過儀礼が必ず待っている。自分のした契約が正しくとも正しくなかろうと、そこで改めて「レールとの相性」を見つめ直すことができるのだ。


 そこまでドラマが進んでいれば、自分に与えられたレールが宿命と呼べるものなのか、そうでないかの見分けも付く。
 また、「自分で自分のレールを作り替える」知識や実力だって手に入っている可能性が高い。


 誰だってそうして「出会い」に飛びついて、契約して、そして再契約することで自立してきたのだ。
 そういう意味で夜神月が破滅したのは必然でもあって、彼はリューク相手に「再契約」することが無かったのだな。だからリュークにとっての月が「つまんなくなったから」見殺しにされた、というのは当然なのだ。


 そして、まさにエヴァTV版(90年代)→新劇場版(ゼロ年代でも変化がある。
 新劇場版では、「ぼくが乗ります!」という決断の後に、「降りたければ降りていいのよ」「やっぱり乗ります」というミサトとシンジの交流がある。
 「その場の勢いの契約」から「経験した上での再契約」が発生しているということだが、TV版で「やっぱり乗ります」にあたる部分は少し弱々しい意思表示でしかなかったのに対して、新劇場版での「やっぱり乗ります」は、中学生の子供ながら、自立した意志を感じられるドラマになっている。

「ハンコを受ける側」の物語

 これは「ハンコを押す勇気」をイージーに行える、という「ハンコを押す側」の都合だけの話ではない。
 「ハンコを受ける側」の視点から見ても価値があるのだ。


 そこで「手段と目的のドッキング」がテーマになるのだが、それぞれ片方しか持たない人々が、出会えるチャンスを逃さないようにする、ということこそが人間を幸福にする社会のモデルなのだろうと思う。
 ビル・ゲイツスティーブ・バルマーとか、本田宗一郎藤沢武夫とか、近い例では奈須きのこと竹内崇とか、そういう「生涯の相棒」と出会えた者の人生は美しい。


 Fate遠坂凛というヒロインは、「そういう社会モデルの構築」を理想にする人なんだ、とペトロニウスさんは(いつものことながら)力説していた。
 凛自身は「理屈を超えて強烈な目的」というのを持たない人で、だから逆に「強烈な目的に従って破滅する」士郎に惹かれている。
 しかし、日本人の好きな「滅びの美学」とか「玉砕精神」を、美しいと思って感動するのは間違いなのだ。「頑張っている人が報われる世界を作ってあげる方が断然いい」と考える凛は、だから士郎を支える生き方を選ぶ。


 ついでに言うと、それって奈須きのこと竹内崇の関係そのままだよね、とか、その凛の理想の実現において、当然キーマンになるのが時計塔のウェーバーだよな! という話でもある(これはFateオタクの余談)。


 ちなみに、『コードギアス』のCCにも「ルルーシュのハンコを受けた側」としてのドラマがありそうなんだけど、その場ではCCが好きな人がいなくて、議論は発展しなかった。誰か教えてください。

「ソープに行け!」と「勇気を出すな!」メソッド

 ところでこの、「イージーな契約」という概念は、古典的なだけあって非常に汎用性が高い。
 それをかなり普遍的なセリフとして昇華したのが、『天元突破グレンラガン』の

「自分を信じるな! お前を信じる、俺を信じろ!」

……というアニキのセリフだろう。こう言われることで、「自分を信じる」という無理なエネルギーを省略して、全てアニキに担保してしまえばいいからだ。
 そして勿論、このスイートで暖かい信頼関係から、主人公のハードな自立が描かれるようになる。

「俺が信じるお前でもない、お前が信じる俺でもない。お前が信じる、お前を信じろ」

 これも再契約なのだ。



 ふと思えば、北方健三先生に「女が怖くて話ができません」という人生相談を送った場合、「ソープに行け!」という答えが返ってくるという。
 ニュアンスとしては「童貞を捨てれば男は変われるぜえええ」というマッチョな話でもなくて、「ソープに行けば相手も仕事だから、一通りの会話をすることができる。一言も女と話したことが無いなら、そういう所から慣れていけばいいだろう」という地道なアドバイスだったらしい。


 ソープに行く、というのも一種の「契約にハンコを押す」行為でもあって、ナンパや合コンとかなら「相手と会話が続くか」は自分の努力次第だが、ソープならお金を払うことで最低限の会話を経験できるレールが敷かれている。そのメリットを北方先生は説いたのだろう。


 ただし……、そう説教された側は「でもソープが怖くて行けません」と、もう一度ハガキを送ってくるかもしれない……。


そうなってくるともう、度胸の問題というか……「要は、勇気がないんでしょ?」メソッドにしかならないよねー、とsさんは呆れていたが、そこで諦めてはいけないのではないだろうか。


 つまり、「女と話す」という目的に「ソープで金を払う」という「契約」で近付こうとしたように、「ソープへ行く」という目的にも何らかの「契約」を挟めばいいのではないか?
 自立をまだしていない子供は、楽をしたいのだ。「チャンスさえあればやれるんだぜ」と思いながらも、向こうからチャンスが(あわよくばモチベーションとセットで)来てくれるのを待っているのだ。
 つまり、子供は「イージーな契約」をいつだってしたがっているのだ。


 だから度胸や勇気を出せない子供に対して言うべきなのは、


「じゃあ度胸なんか出さなくていい!」


であり、


「俺がお前の度胸だ!」


……なんじゃないか? 「キャー、それは言われたい」とかsさんと盛り上がって、「これって勇気がないんでしょメソッドに続くテンプレになんねーかな」などと笑っていたのだった。女の子バージョンとして「じゃあ勇気なんていらない! 私があなたの勇気なんだからね!」とか、テンプレとしてはなんか凄いぞ。
 そうしたら「それはなんか相手に騙されそうでイヤですね」と、横で聞いていた烏蛇さんはヒいていた。


 いや、だから(頭で納得した後なら)モチベーションは相手に担保してしまいましょうよ、偶然の出会いが自分に与えてくれるのなら、そのレールに飛びついた方がいいんですよ、という話になるわけです。

キーワードとしての「契約」

 「イージーな契約」と「再契約による自立」。
 偶然を必然のものとする証明。あるいは、自分の意志でレールを作り替える。
 契約する側と、契約を受ける側、それぞれの視点の物語。
 手段と目的が出会うことのできる、理想的な社会。
 昔と今の、「決断にかかるエネルギー」の重さの違い。


 ものの小一時間で、こういったキーワードがいっぺんに出てくるのが、充実したオフ会の面白さですね。