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高島俊男『漢字と日本人』読了

漢字と日本人漢字と日本人
高島 俊男

文藝春秋 2001-10
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本来漢字は日本語とは無縁。だから日本語を漢字で表すこと自体に無理があった。その結果生まれた、世界に希な日本語の不思議とは?

 日本が中国の文字である「漢字」を取り込んで日本語を作り上げてきた、ということは常識としては知っていても、実際どのような変化を経てきたのかまでは知らないのが普通でしょう。そういう人の為に書かれた本のようです。
 著者は東大の大学院出のお爺さんで、お年寄りらしい反骨気質がゴリゴリと文章全体に溢れていて、何でもかんでもグチや説教に結びつける論調がやや難渋ではありますが、そこに目をつぶれば、我々が普段使っている言葉に対して広く視界を広げてくれる良書だと思います。


 メインとなる主張は、「漢語(中国語)」と「和語(大和言葉)」が全く異なる言語体系であったのに、無理矢理くっつけてしまったものだから、なんとも奇形的な言語に育ってしまった……ということ。
 そして、日本の歴史の要所々々において、当時の政府や学者がいかに(その、日本語特有の問題点を見過ごしたまま)無思慮な改造、改悪を繰り返してきたか。結果、現在の日本語はこんなにもグシャグシャになってしまったのだ……というような内容。


 かようにまぁ高島俊男は日本語に対して悲観的なビジョンを示しているのですが、先に加藤徹の『漢文の素養』を読んでいたおかげで、複眼的なビジョンを得られるようになったのは良かったですね。加藤徹は逆に、日本人が漢語を学び、日本語に漢字を取り入れたことにポジティブな価値を示すような立場でしたから。

漢文の素養   誰が日本文化をつくったのか?漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?
加藤 徹

光文社 2006-02-16
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 日本語が漢字を取り込んだことの是非を抜きにして、我々が普段使ってる言葉が、「漢語」と「和語」のチャンポンであって、漢字に日本語の「訓読み」をあてて用いるのは、それ自体が奇妙なことなのだ、という視点を突き詰めて考えてみるのは面白いですね。
 思考実験として、漢語を用いずに日本語を話す――つまり「文章中に音読みの漢字を使わない」――ということを試すことで日本語の側面を確かめることもできると思います。
 「漢字を使わない」というのはイコール「漢語を使わない」ということです。そもそも「つかう」とか「もちいる」「たしかめる」は漢字を必要としない「日本語」なので、仮名文字のままで通じるわけです。しかし熟語を使わない、という意味ではなくて、「山場」は「やま・ば」という和語ですから、漢字抜きでも使えるでしょう。でも「制止」「静止」「生死」「製紙」「姓氏」「正視」「誓詞」「世嗣」……などは「漢語(もしくは和製漢語)」なので、和語ではないからNG。どの道、読みが全て同じ「セイシ」ですから、もし漢字が無ければ途端に意味が分からなくなってしまう言葉です。


 第一、漢字と和語をくっつけるというのは、普段使ってるから自然と思うだけのことで、「英語のuseにツカウとルビを振る」「verifyをタシカメルと読む」のと同じくらい変なことをやってるのだ……みたいな考え方になるんでしょうね。でもそういう「変なこと」をしないと全然成り立たなくなるのが日本語という言語なんである、と。
 朝鮮民族などは漢字抜きでも成立する言語体系だったから漢字を捨てることができたのに対して、日本は捨てようにも捨てられないくらい漢語と和語が結びつきあっているのだ……、ということが、論理的に実感できる内容でした。