読書日記:アントニオ・R・ダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』その4
第六章 中核意識の発見――無意識と意識の間
p231
対象が直接われわれの周囲にあるのではなく、記憶から呼び起こされる場合も、それらのイメージが中核意識を生む。その理由はつぎの事実と関係している。すなわち、われわれは対象の物理的側面――たとえば、形、色、音、典型的な動き、匂い――だけを記憶に蓄えているだけでなく、そういった側面を感知するプロセスと関わる有機体の運動的側面、対象に対する情動反応、その対象を感知するときのより広範な身体的、心的状態も記憶に蓄えているという事実である。その結果、心の中である対象を想起しそのイメージを展開すると、そういった関連側面を表象するイメージのうちの少なくともいくつかのイメージが再構築される。あなたが想起する対象に対する有機体のそのような一連の調整が、外的な対象を直接知覚する時に生じる状況に類似した状況を生み出す。
要するに、あなたがある対象について考えると、過去にその対象を知覚するために求められた調整の一部と、その対象に対する過去の情動反応が再構築されるが、それだけで十分に、あなたの目の前に直接外的対象がある場合と同様に、原自己が変化する。
- 創作物においては、「絵」や「音(音楽,効果音)」によってイメージを伝えたり、「メタファー」を用いて何かを表現しようとする手法の根幹に関わってくるメカニズムを説明しているように思われる
- 何より、物語の中で描かれる、登場人物の行動に対して「受け手が追体験する」という、いわばバーチャルリアリティ体験の有様を把握する上で重要な視点であるように思える
- その上で、「実体験」と「追体験(疑似体験)」の差異を見極めることも大事であろう
- いわゆる「共感覚」のメカニズムとは区別した方が良いか
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またこのあたりの記述からは、言語学の名著『思考と行動における言語』の一部を連想したので、そちらからも引用してみんとす(強調箇所は原文において傍点が打たれているもの)。
p138-141
11 記号的経験(symbolic experience)
きわめて現実的な意味において、良い文学を読んだ人々は、読めない人々、読もうとしない人々よりも、より多くの人生を生きたことになる。『ガリバー旅行記』を読んだことは、ジョナサン・スウィフトとともに人類の行為に嘔吐を感ずる経験をしたことになり、『ハックルベリー・フィン』(Huckleberry Finn)〔マーク・トウェーンの傑作〕を読むことは、イカダでミシシッピ河を下る気分を味わうことになる。バイロンを読んだことはかれとともにかれの叛逆性と神経症に悩み、かれと社会を嘲笑する気持ちをともにしたことになる。(中略)これが感化的コミュニケーションの行う大きな仕事である。それは、他の人々が人生についていかに感じたかをわれわれに感じさせる、たとえその人々が何千マイル離れた所、何百年前の人々であろうとも。われわれはただ一つの人生しか生きられないと考えることは正しくない、われわれが読めさえすれば、われわれは望むままにさらに幾つの人生でもどんな種類の人生でも生きられるのだ。
ここで読者から反論が出るかもしれない、自分の人生以外の人生を「生きる」(“living”)ということは、言語を曲げてはいないか、と。ある意味でその反論は正しい。(中略)けれど人間の生活は、ただ一つのレベルだけで「生きている」のではない。われわれは外在的世界とコトバ(その他の記号)の世界との両方に住んでいる。「他人の人生を書物の中で生きる」というのは、われわれの表現では記号的経験(symbolic experience)という意味である。これはまた「代償経験」(“vicarious experience”)とも呼ばれる。
文学作品や劇――小説・戯曲・映画――などを味わい、それについて考える時、われわれは、その物語の主役がある程度われわれ自身を象徴化している場合に、もっとも深い味わいを感ずる。
(中略)
ある人を未成熟(immature)という理由の一つは、その人がいかなる種類の敗北・悲劇・不快さにも直面できないからである。このような人々は、普通、それが記号的経験の中でであろうとも「不幸な結末」(“unhappy ending”)には堪えられない。(中略)
年を取るにしたがって成熟していく読者は、その記号的経験の深さと範囲と精妙さとを増していく。世界を正確に観察しその観察を意味ある形に組み立て得る有能な作家に導かれて、成熟した読み手は、殺人・犯罪・宗教的昂揚・破産・親友との別れ・金鉱や哲学的原理の発見・ノースダコタのイナゴの害にともなう絶望感といったものを記号的に経験できる。このような人は新しく記号的経験を積むごとに、人間や物事に対する洞察力が豊かになる。
p144-148
獣は挫折したり、不愉快なことがあっても、その緊張を緩和する方法をあまり知らない。人間は、入り込むべきもう一つの次元(すなわち、記号の世界)があるので、その中で経験をするだけでなく、自分の経験を自分に対して記号化する。
(中略)
詩は、しばしば心の健康の助けとみなされて来た。ケネス・バーグはそれを「生きるための装備」(“equipment for living”)と呼んでいるが、このコトバを真剣に考えれば、その示唆する所をいろいろな方向に発展させることができそうである。例えばわれわれが日々直面する、大小のいろいろな困難と緊張の絶え間ない連続に対して、われわれ自身を守ろうとする記号的操作にはどんな種類のものがあるか?
- ちなみに『思考と行動における言語』の邦訳では、原書にある「symbol」を「記号」と訳しているが、日本語で「記号」というよりももっと曖昧で抽象的なイメージを「symbol」という単語に込めているようなので、ここは「象徴」あたりに読み替えた方がニュアンス的に好ましいと思う
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