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読書日記:アントニオ・R・ダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』その1

 脳神経科学とスピノザ研究の本、『感じる脳』があまりにも名著だったので、同じ著者の前作『無意識の脳 自己意識の脳』を購入しました。

 熟読して理解を深める助けに、ちょっと今日から読書日記をつけてみたいと思います。個人メモ的な内容になると思いますが、ご了承下さい。


 読書日記は、本文からの引用文といずみのの註釈(メモ)で構成されます。
 まずは第一章から。

第一章 「脳の中の映画」とは何か

p41-42

 私の視点では、これまで神経科学はその努力の大半を、私の言う「対象代理」[object proxy]に対する神経的基盤を理解することに注いできた。意識という関係作用において、対象は、その特徴をマッピングするのに適した感覚皮質に、ニューラル・パターンの形で提示される。たとえば対象の視覚的特徴の場合、視覚皮質のさまざまな部位に、つまり一つや二つではなく多くの部位に、ニューラル・パターンが構築され、それらが協調して対象のさまざまな視覚的特徴をマッピングしている。しかし有機体の側では問題はまったく異なっている。問題がどのように異なっているかを示すために、ちょっと頭の体操をしてみよう。
 目を本から離してあなたのすぐ目の前にあるものを見、それをよく観察してからまた本に目を戻してもらいたい。このとき、網膜からいくつかの大脳皮質領域まで、あなたの視覚システムの多くの部分がただちに本をマッピングするのをやめ、目の前の対象をマッピングし、それからもとの本をマッピングした。(中略)
 さて、ここでつぎのことを考えてみよう。あなたの視覚システムは、それがマッピングした対象によって忠実に変化した。一方、命のプロセスの調節を仕事とするいくつかの脳部位にはあなたの身体のさまざまな側面を表象するプリセット・マップが収められているが、それらの部位は、表象する対象の「種類」に関して変化したりはしなかった。つまり、それらの領域の「対象」はつねに身体であり、死が訪れるまでそうであるだろう。しかし、対象の「種類」が同じ、というだけではなかった。その対象――身体――の中で起こる変化の程度もきわめて小さかった。(中略)何が起ころうとも、有機体はその狭い範囲を維持するように遺伝的にデザインされているからである。 

  • 要約
    • 神経科学は、「外界の対象+脳」のセットに注目するのではなく、外界と脳を媒介する「身体」を重視する。「外界を認識する身体」をこそ対象とし、「身体という対象+脳」を見るべきだ、なぜなら、本を読む時も、景色を眺める時も、脳が真に「認識」しているのは「身体の変化」だからだ。しかも外界が大きく変化した場合でも、その身体のシステム自体は変化しないのだ……。
  • これはいずみのも常に考えていることで、例えば、人は漫画や、アニメや、映画や、あるいは実物といった、視覚に関わる「メディア」の違いを論じようとするけども、そのどれもが「眼球網膜→視神経→視覚中枢→脳」「脳からの興奮信号→全身の情動反応→脳」と通じて人の脳が「感じる」までの過程は同じなのであって、「漫画用の網膜」や「アニメ用の視神経」や「映画用の視覚中枢」や「実物用の情動反応」が別々にあるわけではない(「ケーキは別腹」と喩えられるような器官は存在しない)。
  • 二次元の図像について、その表層の違いを論じるのは簡単だが、その前に人間の身体の「つくり(システム)」を良く吟味しなければならない、と思う。
p50-51

 われわれはときおり、事実を見いだすためにではなく事実を隠すために心を使う。われわれは心の一部を衝立として使い、心の別の一部がよそで進行していることを感知しないようにしている。(中略)
 この衝立がもっとも効果的に隠しているものの一つがわれわれ自身の身体、身体の中身である。(中略)情動と感情のあいまいさ、捉えどころのなさ、実態のなさは、たぶんこの事実のあらわれであり、われわれが身体の表象をどのように遮っているかを(中略)示唆している。でなければ、われわれは情動と感情が紛れもなく身体に関するものであることを容易に知るはずだ。われわれは心を使って、われわれの存在の一部を、他の一部から隠蔽しているのだ。
 この身体の隠蔽を注意力散漫と表現できなくもないが、それは優れて適応的な注意力散漫であることを付け加えておかねばならまい。ほとんどの状況において、心的能力を身体の内部状態に集中させるよりは、外界の問題のイメージ、それらの問題の前提、それらの問題の解決オプションや結末、そういったものに集中させるほうが、たぶん有利である。しかし、心の中に存在するものに関してこのように視点をそらすことには、犠牲も伴う。いわゆる「自己」の本源や本質をわれわれが感じ取れなくなってしまうことだ。この衝立が取り除かれれば、人間の心に許されている理解の範囲で、個々の命の表象の中に「自己」の起源が感じ取れるのではないかと思う。
 この衝立がなかった昔、すなわち電子メディアやジェット機や活字が登場するはるか以前、まだ帝国や都市国家も登場していない、環境がかなり単純だったころには、もっと容易にバランスのとれた視点を手にできたと思う。脳が逆向きの視点を授けていたとき、つまり視点が有機体の内部状態の支配的表象に向いていたときは、もっと簡単に内なる命を感じ取ることができたにちがいない。
 (中略)今日われわれが心と呼んでいるものを、息と血を意味するためにも使われた「プシュケ」という言葉で言い表した古代人の知恵に、私は驚嘆する。

  • 要約
    • 外界の情報(それも、生存に関係する情報)が少なかった古代の方が、人は肉体的な感覚に優れていただろうことを推測した文章。
    • ダマシオは、身体から湧き出る「情動の反応」をこそ意識の基盤としているので、肉体感覚に優れた古代人は「意識の成り立ち」を自覚的に観察することもできるが、現代人にとってその成り立ちは曖昧で、過程をすっとばして認識していると言える……。
  • そうした現代人の思い込みは「頭を使う」「脳に意識はある」といった表現にも表れているが、そう直感的に解釈(ダマシオの本を読めば解るが「脳に意識がある」とするのは不正確であって、今日の人間がそう思い込んでるだけなのだ)しているのも、その感覚が古代より変化してしまったからかもしれない。
  • 神秘色が強い武術(太極拳や、「植芝盛平の」合気道など)は身体感覚の鋭さや内観の深さを修行者に要求するが、そういった武術や、多くの神秘思想が「太古」にその発祥を求めることを裏付けるような文章でもある。
  • いわゆる「山籠もり」や「瞑想(禅)」にもそれなりの意味があるだろうことを思わせる。

無意識の脳 自己意識の脳無意識の脳 自己意識の脳
アントニオ・R・ダマシオ 田中 三彦

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