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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

ツンデレの心得は「帰ってきたドラえもん」である

izumino2006-09-01

 昨日書いた記事の関連で連続更新です。おお……ブログっぽい(ブログです)。
 再びkamimagiさんの記事から。

「神の視点で読んでいる読者だけはそのディスコミュニケーションの世界が、実は愛に満たされていること知っている」


 この言葉を「神の視点で読んでいる主人公だけはそのディスコミニュケーションの世界が、実は愛に満たされていることを知っている」
 に変えると、ぶっちゃけ大抵のギャルゲに援用できるとかいってみた。

 つまり、ツンデレや妹などのオタクに受けた萌え要素の共通点というのは可愛い女の子の見た目だけを観賞するのみにあらず、女の子の心の中すらも観賞しやすい状況に持ってきているといえるだろう。


 ツンデレでなくとも、ヒロインの過去を回想とかで読み手や主人公に教える行為もヒロインの心境を透明にみせかけるための技法といえる。
 オタクは女の子の気持ちが判っていないと恋も出来ない生き物なのだ。(偏見)


 ツンデレは常に外はツンツンしてても、心の中がデレデレなのは何らかの原因で判ってしまっているわけで。

 これと似たようなことはウチの入口論に書いてたな、えーっと、これだ。


 現実では、他人の心を読むことができないことは当然だが、物語においてはそうではない。キャラクターは自分の感情を隠すことができない。受け手は「神の視点」からキャラクターの心理を観察することができる。視点変更によるモノローグはおろか、「ドキッ」という効果音や、赤面を表すワンポイントなどからでも、その内面を雄弁に物語って(物語らされて)しまうのである。それが「演出」と呼ばれるものの利点であり、(当のキャラクターにとっては)残酷さでもあるのだ。
 <中略>一方現実では、そうおいそれと他人の内面を踏みにじることは許されないものである。現実で相手の内面を覗く為には、それなりのマナーと人生経験、そして適度な横柄さが必要なのだし、しかも苦労して読み取った内面が「真実の心」なのかどうかの保証はどこにもない。
 その反面、物語において描かれていることは、信頼度が高い情報だと言える。「私(=受け手)」に対して嘘をつきにくい、という事実がキャラクターの魅力を支えている。

 まぁ、「相手の心が読める」フィクション体験に慣れすぎてしまうと、「相手の考えが読めない」という理由だけで対人恐怖になってしまって、異性を好きになれない……っていうのは内向的な人間なら陥りがちな問題だとは思います。
 現実の人付き合いなんて、いい加減な、当てずっぽうの当て推量でやるしかないと思うんですけどね。


 でもアレだなぁ、ここらへんの「少女・内面・理解・恋愛・オタク」といったキーワードは割と批評家達の手垢が付いてると思うので深くツッコまないことにします。


 それより漫画の話をしよう、漫画。

「誤解」と「理解」のドラマのパターン分類

 じゃあ、ひとつの作品における登場人物同士(多くは「主人公→ヒロイン」)の関係のパターンを大雑把に分けてみましょう。自分ではこんな感じに捉えています。

  1. ほぼ完全な「理解」が深まるパターン
    • 漫画的な関係。誤解が存在しない、ある意味ファンタジーな世界観。「相互理解」による大感動のクライマックスを作りやすい手法(カレカノなどが典型的)。「理解=救済」であり、「理解=愛」である
  2. 「誤解」に基づいた、ディスコミュニケーションに満ちたパターン
    • 現実的な関係。うまくやると世界観にリアリティをスパイスしてくれるが、ヘタにやると悪意的なブラックユーモアにしかならないので注意。「相手を理解できてもつまらない」、「理解=独占欲の現れ」という、説教じみたテーマに繋がることも多い
  3. 「誤解」に基づくが、善意に満たされたパターン
    • スクラン的な関係。これはこれでファンタジーだとも言えて、理想的な世界を描いている。ナチュラルな感動やユーモアを作り出せる渋い手法

 自分の場合、こういう分類が「漫画の読み方」を決める時の基準にもなっています。
 「ああ、この作者は『人間は分かり合える』という前提でお話を作ってるんだな」とか、「この作者は相互理解を信じてない人なのね」とか思いつつ。
 自分の中では、SABE西炯子なんかが「相互理解を滅多に描かない作家」の代表格だったりします。

ツンデレとウソ800

 しかしそういえば、昔「ツンデレとはウソ800である」というような戯れ言を吐いたことがあって、どういう意味かというと、あの

「うれしくない。これからまたずっとドラえもんと一緒に暮らさない!」

というのび太の言葉が、「本心の裏返し」として吐き出されたからこそ、そこから逆算して見透かせる「本心」が、真実味というものを持つと思うんですよね。
 「うれしい!(本当)」と叫ぶよりも、「うれしくない(嘘)」と言った方が、真実味がある。
 それと同じで、ツンデレの「別に好きなわけじゃないんだからね!」という台詞の向こうに、ただの「好き好き」以上の真実味を感じるっていうのは、「帰ってきたドラえもん」のクライマックスにおける感動の構造と近いんじゃないかな、と思う次第。*1


 いや、結論としては「Fはやっぱり偉大だ」ということなんですが。今でもあのシーンを思い出すだけで涙が……。

*1:こういう「本音を隠すことによる趣の良さ」は、九鬼周造の『「いき」の構造』なんかとも絡められるでしょうね